『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

客観的事実から脉診の訓練を

 先日「にき鍼灸院」には、オランダからの見学者がありました。といっても、オランダ人の奥さんと結婚されて移住されている日本人であり、日本語での応対でしたけど。
 間もなくその見学者から感想文をもらいこのブログへ掲載することを承諾してもらっているので、その前座として概要に触れておこうと思います。と書いていて、結局長文になってしまいましたが。

 「にき鍼灸院」を知ったいきさつや見学までのことは書いてもらえると思いますので、こちらから見ていて世界の鍼灸教育の実情と問題に感じた点を主に書きます。
 世界の鍼灸はTCM(Traditional China medicine)が支配的であることは否定仕様のない事実であり、敢えて「代替医療」と表現しますが中国は国策として医学の輸出に積極的です。しかし、現代の中医学文化大革命以後に再編纂されたものであり、中国国内においても老中医と新しい中医での技術差があまりに大きいことが問題とされ、教科書は改訂が進むに連れてどんどん洗練されてくるのに技術は反比例して低下していることも否定できない事実でしょう。
 そのような背景があるのに、平気で海外では英語による授業が行われ拡大路線を突き進んでいる。「それは大きな矛盾じゃないのか?」と雑誌を読んだり学会報告を聞いて私も思っていたのですけど、実際の現場はもっと悲惨だったようです。

 現場のことについては差し支えがあるかも知れませんのでレポートに任せてここでは割愛しますが、日本の専門学校と同じく実技時間が圧倒的に不足している上に講師の実技を眺めているだけが多いようです。鍼灸を「ハンドワークアート」、つまり「手の芸術」と表現した人がいるように「さわってなんぼ」の世界なのに、見ているだけで実技が終わりというのは絶対に違いますよね。これは日本でも全く同じことですが、まだましな方だったのかも知れません。

 そして見学といえども私より先に問診をしてもらい一通りの診察結果を報告してもらったのですが、健康管理で通院されている患者さんが「肩こりはありますけど普通です」とわざわざ答えてくれているのに、その肩こりから色々と問題をほじくろうという考え方が見えてきます。弁証論治での臨床をしていない立場で強く批判をするのはいささか気が引けますけど、それでも西洋医学では検査結果で何も出なくても継続して薬を出されることがほとんどであるのに対して、「代替医療」なのですから日常生活に何も不自由がなければそれでいいのではないか、というおおらかな面を持って欲しいといいました。
 弁証論治では、「今月も調子よかったです」では証決定ができない?のでしょう。ですから、ベッド上の患者さんには根ほり葉ほり問診をして、そして小さな問題を大きく膨らませて治療へとつなげなければならないのでしょう。それは大きなお世話です。それに弁証論治といっても治療側の架空の理論であり、治癒して初めてそれが正しかったことが証明されるのですから、極軽い症状の患者さんにとっては迷惑な診察法になりかねないと感じました。
 それから一般的な経絡治療であれば、もちろん「漢方はり治療」でも病理に基づく証決定が例え架空のものだとしても、選経しようとする経絡を軽擦することにより鍼をしたのとほぼ同じ反応を事前に確認することができます。これは「やった・効いた・治ったのさんた治療」と批判されがちな鍼灸治療においてかなり重要なことなのに、事前の確認ができるということが世界には全く知られていないようです。国内でもあまり知られていないのですから、これはかなり反省しました。リアルタイムで変化が目で見ても分かること、本当に驚かれていました。我々の治療法を広く発展させるためにも、まず第一に大きく広めて行かねばならない事項です。

 そして脉診なのですが、オランダで脉診の実技を受けたことがないと言うのですから触覚もできていないので無理はないのですけど、どうしても「薄い脉」という表現にこちらが戸惑いました。
 結局「薄い脉」というのは、中医学を英語で講義されていて、それをまた日本語に訳すために出てきた矛盾のようです。しかし、実際に脉診をしたことがほぼなかったというのですから、「薄い」が「胃の気が薄い」を指しての表現かどうかは、怪しいところではありますけど。それに最低限の用語は統一されていても、日本で用いられている脉診の表現が、中医学にはあまり見られないという事情もあるようです。ということは、既に知られてはいましたけど中国と日本での脉診は相当に異なっているということです。
 脉診を聞きかじった程度の人が誤解していることの一つに、「自分が触りやすい脉」をそのままいい脉状だと思い込んでいるケースがあります。「いい脉状」そのものが何か分かっていないのであり、触覚がないのですから触りやすい脉を求めたがるのでしょうけど、勝手にそのように決められては困ります。チョウド高血圧の患者さんが来られていたので「触りやすいでしょう」と質問すると、「はい」との答えです。「これをいい脉と思いますか」の問いかけに、既に何度も自分が触りやすいのと身体が楽な状態とは違うと説明していたのですが「いい脉に思いたいです」との答えでした。しかし、堅く突き上げてくる感じの脉が心臓を初め全身でうねっているのですから、これは身体状況としていいはずがありません。「いい脉というのは触っていて気持ちのいい脉です」と説明しても、やはりピンと来ないようです。
 以前に所属していた団体で、脉診の評価が納得できずに離れていった方を多く知っています。まだ手技が充分でないために教えてもらった脉状を作り出せないのですけど、そこへ営業的に従来からの刺激治療を加えるとピンと張りつめた「触りやすい脉」ができてきて、しかもある程度は症状が取れてしまうので「やっぱりこれじゃないか」と誤解してしまったように記憶しています。当時は沈めて陰経・中間が中脉・浮かせて陽経という脉診の評価でしたから、柔らかなことは前提にしながらもそれでも中間にまとまった脉状を基本としており、違いを説明するのに私もクモをつかむようなところがあったと思います。それに「沈めて陰経・浮かせて陽経」が前提だと、どうしても最終的には指に均等に触れる脉が「いい脉状」となりますから、「自分が触りやすい脉」との違いは紙一重であり議論の噛み合わない点の一つです。

 ところで、私が修行を始めた頃に、こんなことがありました。膝や腰が痛む患者さんには最初の仰臥位で痛みがあると膝枕を入れて楽な姿勢になってもらいます。それまでの学生時代は仰臥位で治療をすることしかしていなかったので、ちょっと不思議でしたが経絡というのは大きく引き延ばした状態で治療することも大切だが、楽な状態で治療することも同じくらい大切だ」と師匠に教えてもらい、確かに患者さんが安堵の表情を浮かべるくらい姿勢の変化が大切だということを知りました。膝枕を入れるとお腹が柔らかになり、同時に肩上部も緩んでいたのですから、これは大切なことです。
 この時に脉診していると、すっと脉状が柔らかになることを最初から私は観察していました。けれど何故か「沈めて陰経・浮かせて陽経」で最終的には中間にまとまった脉状を作ることとの矛盾に気付いていなかったのは、今思えば不思議なことです。腹部も肩上部も改善しているのですから、その客観的事実を先に認めて、脉の変化も「これが改善しているもの」と事実の方を認めるべきでした。
 言い換えれば、腹診は細かな情報としては役不足でも客観性が高く、肩上部の緩みはそれこそ客観的なものであり、これに対して主観性の強い脉診はまず客観的事実を基準に自分の方から評価のあり方を歩み寄らねばならないものなのです。これを納得して訓練を積み重ねられるかどうかが、脉診を会得できるかどうかのラインだと言えます。

 でも、蛇足になりますが私だってこの基準線に至るまでには25年を費やしてしまいました。前述のように「沈めて陰経・浮かせて陽経」の脉診法から入ったのでその呪縛からなかなか抜け出せず、客観的事実がそこにあるのに治療は成立してしまうので矛盾を覆い隠していました。これが完全に突破できたのは、漢方鍼医会が発行した「要穴の臨床取穴法」の本を制作するために行った合宿での実技であり、製作過程での文章づくりでした。(参照:漢方鍼医会20周年記念大会レポートその4、「取穴書」について(前編)
 ですから、経絡治療という分野が創設されてからほとんどの先輩たちが同じような道を歩んできたので、最初の段階での思い違いはいいのです。いや、気付かないままで治療家人生を終えられた方もおられたでしょう。しかし、情報化社会のいいところで情報共有から矛盾が洗い出されてきたのですから、今から勉強する人たちは無駄な回り道をしないでください。
 そして回り道をさせないことが、指導的立場になっている我々のこれからの仕事でしょう。