『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

志(こころざし)

 二回ほどこのブログで見学者のことを書いたのですが、誰かが見学に来ると必ずネタにするわけではありませんけど色々と発見したり考えのまとまることがあるので今回も見学のレポートを交えながらの執筆です。

 秋になると鍼灸学校へ提出している求人票からの見学が入ります。実際に採用するかは別として、新たな人材確保の目的もあって求人票は毎年提出しています。
 助手は原則として研修会に参加している学生の中から採用するのですが、学生会員の登録がなかったり卒業学年の学生がいなければ見学者の中から採用することもあります。私自身も当時の東洋はり医学会滋賀支部には参加していましたけど、滋賀支部では助手を採用してくれる場所がなかったので他の地方組織で採用してもらった経緯があります。
 でも、学生時代の経験はとても大切であり臨床家の技術に触れて話を聞いておく体験があるのとないのとでは伸び率が大幅に違ってきますので、研修会に全く参加もしたことのない学生を採用した時にはそれだけくろうがどちらにも大きくなりますし、結局は失敗に終わったケースとは研修会未経験者ばかりでしたからこの点だけは押さえるようにしています。

 さて今回の見学者は先月に引き続き就職希望が前提ではありましたけど、「どうしても経絡治療で」という姿勢ではありませんでした。まだまだ鍼灸業界というものを見聞中という感じであり、鍼灸学校への入学動機を聞いても「親に勧められたから」ということで自ら鍼灸師を選んだわけではないとのことです。
 経絡治療関連の研修会には割と継続的に参加しているとのことですが、学校で教えられる深く刺したり電気刺激を加える鍼が肌に合わないということが大きな理由であり、信念があるわけでもなさそうです。

 ここで大きく話の梶を切らせてもらいまして、私は別に鍼灸師を目指した動機がどんなものであっても構わないと考えています。私自身が先天性の視覚障害者で小学校より盲学校に在籍していたため、「将来は按摩・マッサージ・指圧・鍼灸の仕事をするのだ」と刷り込まれていましたし、ある程度の判断ができる年代になっても日本の視覚障害者は恵まれた環境があり『天職』と書いても過言ではないでしょうから、この世界を目指すことに疑いを持ちませんでした。
 晴眼者においては「自分が鍼灸という技術によって救われた」という体験からの人よりも、「何か手に技術を持っておきたい」「医療だから儲るかも」とお金目的の人の割合の方が高いのが事実でしょうし、医者の家系で二人目・三人目を医学部に入れるのは資金難だから鍼灸学科へとか脱サラのために夜学があったからなど、患者サイドにすれば背筋が寒くなるような動機の鍼灸師の方がむしろ多いでしょう。
 けれど資格取得までの仮定で鍼灸というものが好きになり、鍼灸という技術の目指すものに目覚めてくれれば何も問題はありません。対比をしてしまいますが、医者や看護婦などは目的意識がハッキリしていますし求められる基礎学力も相当なレベルではありますけど、実際にその職業に従事できるかどうかとは別問題です。
 医者であれば外科的な手先の技術を行使できるかという問題がありますしプロジェクトを統括できるリーダーシップも持ち合わせているかという性格上の要素も求められます。敢えて看護士ではなく看護婦という表現をしましたが、夜勤のある職場環境にも耐えられるか・プロジェクトのサブリーダーに徹しきれるか・出血している傷口を見ても平常心を保てるか・理不尽な患者の言葉を受け流せるかなど、理想論で職業訓練を受け始めても脱落してしまうケースはきっと多いことでしょう。
 ですから鍼灸師も、漢方理論に基づく医学体系と西洋医学の両方が理解できるか・手法修得に必要な手先を持ち合わせているか・プロジェクトは小さくてもリーダーシップが取れるか・身勝手な患者の態度や言葉に対処できるか・小児から布陣から老人まであらゆる年代に対処できるか、そして理不尽で不安定な法律の身分制度に対応した経済観念を有しているかと全てが達成される必要はないにしても一生涯の仕事とするにはかなりハードルの高い職種であり、経済的に恵まれるケースは少数派であることを認識しているかでしょう。

 見学者の方へ話を戻しまして、経絡を軽擦することで脉診での変化は理解できなくても腹診の大きな変化は素人でも分かりますから「おもしろい・おもしろい」を連発した見学者が過去にいました。
 概ねは表情から読めていたのですが、「おもしろいというのはこのような鍼灸術が存在していたことか患者の変化か」と尋ねたなら、身体が即座に大きく変化させられることだといいます。「それは自分を中心にどのようなアプローチをしようか・どんな鍼灸を施してみようかという発想だろう」と突っ込んだなら、ちょっと不思議そうな表情です。
 この時点で私は落選を決めていたのですけど、「鍼灸というものは病体を直すために存在しているものであって鍼灸師のために存在しているものではないだろう」と説明しました。さらに「鍼灸という技術は鍼灸師が施せるものであり個人資産も多く含んでいるだろうが、それは過去の偉人たちが積み上げてきてくれた功績の上に乗せてもらえるからであり、その影には貴重な患者の犠牲が数多くあったことを考えているのか」と手を休めずに突っ込みます。
 この見学者は、鍼灸という職業訓練は受けましたけど鍼灸師という仕事人にはほど遠かったということです。

 ある見学者は鍼灸というものが患者のために存在していることは学習の中で悟っていましたけど、誰がやっても技術的な差は経験で埋まるように考えている節がありました。
 鍼灸学校へ入学して実技が始まると、まず自分の身体へ鍼を刺す訓練から始まります。聞くところによると国家試験突破のためには授業時間が特に実技時間が足りず、この訓練をしないという情報もありますがそれでは外科的な手は絶対に育たないでしょう。そして少し毫鍼が刺さるようになるとクラスメートへの刺鍼練習が始まり、半年もすれば刺鍼することがおもしろくてたまらなくなり、鍼灸=鍼を身体へ刺すことと環境に慣れてしまい図式が単純化してしまいます。私自身もこの単純化した図式は体験しているのですが、そこからいかにして鍼灸術の本筋に自己改革で戻せるかがポイントとなります。研修会への参加は、最短で最適な方法だと思います。

 今回の見学者ですけど、前述のように鍼灸業界を見聞中の段階であり、伝統鍼灸に憧れを持ってはいますけど強い意志を持っていたわけではありません。
 しかし、志(こころざし)がありました。入学後もまだ鍼灸というものに疑問を持ち続けていたものが先輩からの治療で楽になり、「これは患者さんに還元せねばならない技術だ」と考えるようになっていたことです。

 現在の社会情勢や鍼灸業界の中でこの技術を発展させ次の世代へ伝承させるために必要なものは、「志」であると久々に思い出した気がする体験でした。