『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

おばあちゃん、本当に本当にありがとう

 今回の記事はプライベートブログ『子供に贈る、視覚障害者お父さんの子育て日記』からの転載です。
 転載に当たっての補足説明は、本文をご覧頂ければ不要でしょう。また固有名詞に対しても補足説明は不用と思われますが、一つだけ勘違いして欲しくない事柄についてだけ書き添えておきます。

 私は決して実の母親の死亡までネタになどしようと考えていませんし、一部に霊感的というのか最近の言葉でならスピリチュアルな体験も付記していますけど、どこの宗教に肩入れもしなければ否定もしていませんし葬儀という儀式についてもとても大切なことだと考えています。
 その中でですが、祖父や祖母というとても身近な人が亡くなった時にも感じたことなのですけど人生の最期だからこそ感謝をするための儀式があって永遠の命へと交換されてゆくのだと今回も強く心に残りました。
 そのようなことで生きている人が専門の鍼灸師だからこそ、力一杯生きるためのお手伝いを日々していることへ新たな感謝の心が持てたことと自分の最期の姿を描いておくことがこんなに大切だということを教えてもらった体験だけに、公開することを決意しました。

 優しかった母親のことについて、読んでいただければ幸いです。
 では、ここから本文となります。


 日常生活の中には色々なことがあって楽しいことや嬉しいことの他に、慌てたことや苦しいことや病気をするなどもありますし、悲しい出来事もあります。
 子供たちが怒られたことについては成長の記録ということで半分くらいは書き留めているのですけど、お父さんお母さんが喧嘩をしたことや少々のもめ事については「楽しい記録を残すこと」をコンセプトにしていますのでほとんど割愛してきました。

 しかし、今日の日記だけはどうしても悲しい出来事を記録せねばなりません。
 それは、彦根のおばあちゃんが突然他界されてしまった、つまり死亡してしまったことです。
 信成はまだ一歳半ですから大きくなった時に記録としてのおばあちゃんは残っていても記憶としてのおばあちゃんは残っていないでしょうし、愛菜も三歳半ですから断片的にほんの少し思い出せる程度だろうと思われます。
 愛菜も信成もとても大好きだったおばあちゃん、美味しいご飯を沢山作ってくれたおばあちゃん、いっぱい遊んでもらったおばあちゃん、お出かけも一緒にしてくれたおばあちゃん。そしてお父さんは四十三年間という長い間ずっとお世話になり続けていましたし、お母さんも結婚前から本当に頼りにしていていつも優しかったおばあちゃん、もうそのおばあちゃんに会うことができなくなってしまいました。喋ることも頼ることも、そしてもっともっと沢山のことを教えてもらわねばならなかったのですけど何も教えてもらえなくなってしまいました。

 2008年12月22日、夕刻に高度のくも膜下出血により実家の居間で一人倒れていたおばあちゃんを発見したのはプールから戻ったおじいちゃんであり、ここから今日の日記の本番となります。
 それで、今日の日記はおばあちゃんの葬儀が終わる25日までを記録し、忌明けあたりをメドに必ず楽しいことを記録するブログは再開しますけどあまりに悲しいのでしばらくは休載します。
 しかし、この記録は悲しみの記録ではなくおばあちゃんへの感謝の記録であり、愛菜と信成とろさきが将来に読んでおいて不測の事態に備えられるようにという意味も込めています。
 ですから、お父さんの立場ではなく息子としての二木清文の立場として、ここからは記述していきます。


 世界的な不況の波は日本経済も直撃していて、医療関係の鍼灸院といえども毎年に比べれば予約数の落ちている十二月でしたけど、それでも二十二日は飛び石連休の中日でしたからほとんどベッドが埋まっている状況でした。
 ハッキリした時間が把握できていないのですけど最終予約の患者さんを招き入れれば今日の仕事も終わるという時間帯に、実家から「お母さんが倒れているのですぐ戻って欲しい」とただならぬ電話があったと聞いて、いつもならぎっくり腰程度だろうとゆっくり構えるのですけど声があまりに大きいのですぐに駆けつけました。
 すると居間で仰向けになっている母親の昌子さんに必死に呼び掛けている父親の義雄さん。つまり、愛菜や信成から見ればおばあちゃんが倒れていておじいちゃんがうろたえているわけです。

 「帰宅したならうつ伏せに倒れていたので仰向けにしたなら身体の色が変わっていた」ということですぐ診察を頼まれ、脉診したのですけど何も触れません。それよりも自発呼吸がないことにすぐ気付いて、気道確保ということで背中に膝を入れて上半身を反らせました。
 しかし、手はだらりと下がり呼吸を再開する気配がないのでプロ目線からはほとんどこの時点で死亡を見切ったのですけど、まずは「信じたくない」という意識が走りました。
 急いで胸を叩いて簡易心臓マッサージをすると微かに脉を打ち、手足の色は少しは戻ったのですけど呼吸が全く戻りません。
 自発呼吸が全くないことを父親に伝え、入れ歯を飲み込んではいないかと探したのですけどありません。入れ歯は台所ですぐに見つかりましたから、交互に人工呼吸を試みたのですけど全く反応がないので、この時点で完全に覚悟は決まりましたがどのような心境だったかをしっかり思い出すことができません。
 一つだけよく覚えているのは「こんな狼狽している親父の姿を見たことがない」ということであり、何度も自分で自分の頭を手で叩いている姿でした。この時には偶然にも電話を掛けてきて緊急事態を知った優子も到着していて必死に呼び掛けていたのですけど、親父の姿はやはり目に焼き付いているとのことでした。

 やがて救急車が到着し、状況説明をして心臓マッサージが試みられました。そして、とにかく点滴をしながら病院へ運ばねばならないということで、優子にはマンションへ戻って子供たちを伴い自動車へ向かうように指示をしました。
 救急車へ運び込まれ市立病院が搬送先であることを聞いて、一度鍼灸院へ戻ってしばらくは戻れないことと仕事の残りを任せるという指示をして、服を着替えて自動車へ合流したのでありました。

 自動車の中から携帯電話で連絡をすると各自が病院へ向かっているとのことであり、状況は相当に厳しいので事故だけは絶対に起こさないで欲しいという確認だけをしました。
 ゆっくり慎重に運転してもらって市立病院の駐車場へ入った時、ハッキリと左の耳に「清文」と呼び掛ける声が聞こえました。「あっ、おばあちゃんが来た、もう全てが終わった」と優子と愛菜と信成に伝え、ました。
 この声だけは思い切りハッキリしていたので聞き間違いではないのですけど、想像かも知れませんが居間で救急処置を施している時には上から「どうして声が聞こえないの?」という風に呼び掛けられていたように覚えていますし、救急車に乗せられる時には「どうもこれは状況がおかしいぞ」と上から覗いている母親の姿を感じていたのでした。

 それでも必死に救急の受付へたどり着くと処置中であることを教えてもらい、二十分ほど待って欲しいといわれたのですが半分も経過しない間に中へ家族は招き入れられました。
 電気ショックを与えると心臓は反応するのだが反応をしているだけであり、一度も息を吹き返していないので極めて厳しい状況であることが伝えられました。そして、半時間は心臓マッサージをする規定にはなっているのだが、息を吹き返さないので例え今から心臓が動き出しても植物人間にしかならないのでどうするかという問いかけであり、腹はくくれていましたからお礼を言って機械を止めてもらいました。。
 死亡確定時刻は19:21でした。

 ここからが大変です。死亡診断書を書いてもらわねばならないのですが、自宅で倒れていて入院していませんでしたから、死因検査と警察からの検死を受けねばなりません。
 おそらく心臓発作ではないかと話し合っていたのですけどCT検査で高度のくも膜下出血であったことが判明し、ほぼ即死状態だったろうと告げられました。
 午前中には日野町まで出かけていたとのことであり、昼食後には自動車を運転して銀行と買い物にも出かけていたとのことです。夕食の準備中だったらしく食材が台所におきっぱなしで入れ歯だけ外してありましたから、ここからは想像なのですけど途中で異常な気分の悪さに入れ歯だけ外してとりあえず横になろうと居間へ歩いている途中に大出血が発生したのではないでしょうか。

 誰にも世話を掛けたくない、ぼけたくない、ピンピンしたままで一発で死にたいと常に繰り返していたのですけど、自分の建てた家の畳の上で本当に一瞬で旅立ちましたから「あっけない」ではなく「あっぱれ」「あざやか」と表現すべきでしょう。見事です、本当に鍼灸師の母親としても見本のような最期でした。

 第一発見者の父親は何度も警察から質問を繰り返されていて可哀想であり、殺人事件でないことを確認するために自宅の視察もあったようです。その他に死亡に伴う手続きが色々とあることは頭では分かっているのですけど、書類を手渡されて説明を聞いてもとりあえず次にすることしか頭に入らない状態でした。
 親戚など色々と連絡を入れたならみんなビックリの反応です。優子と子供たちと岩崎一家は先に家へ戻って受け入れ準備をしてもらうことになり、葬儀業者へ連絡して搬送をしてもらったのは二十一時でした。

 わずか三時間前まではここで動いていた母親、ここ数年間は体重が減少して体力低下こそ訴えていましたけど血圧も高いほどではなく頭痛もなく、朝には高柳さんを交えて食事をしている時に喋っていたのでした。
 いつも一緒にいることが当たり前でずっと頼りにしていた母親、頑固で時には理不尽な振る舞いをする父親からいつもかばってくれた母親、料理が上手だった母親、会社を父親と経営して子育てをしながらだったので休む暇のなかった母親、鍼灸院の経理をずっと任せていた母親、退職後も孫の面倒を見続けてくれた母親、そして誰もが死ぬことなどこれっぽっちも想像していなかった母親。
 本当に頼りになって優しくて、あなたは世界中で最も素晴らしい母親であり五人の孫のおばあちゃんでもありました。本当に本当に、ありがとうの言葉しかでてきません。

 二十二時半にお寺から枕経を読みに来てもらい、この時には近い親戚はほとんど集まってくれていました。
 その後に葬儀の日程だけはどうしても決めなければなりませんから、明くる日のお通夜ではあまりに早すぎるので二日後にするとその次は友引になりますが、午後の葬儀であれば大丈夫ということで連絡を入れたのでした。

 しばらくして病院へ駆けつけた組は夕食を取っていませんでしたし、とにかくみんなで飲んで騒いでということを一緒に繰り返してきた母親ですからビールを飲んでにぎやかにしてあげる方が供養になるということでテーブルを囲んだのですけど、全く酔うことがありませんでしたね。
 そして、体力温存をせねばならないのでとにかく布団へ入ることにしたのですけど、父親が寒い寒いを連発して首筋がおかしいと言い出しますし、すぐ診察すると脉状はリズムが乱れているだけでなく浮沈も乱れていて耳たぶまで小さくなってきています。
 すぐ治療をすることにはなったのですけど、「おっかぁ、もうええわ、わしも連れて行ってくれぇ」と口走っていたことを後から確認してみれば、やはり覚えていませんでしたね。
 この治療は本当に怖かったです、下手をすれば二人分の葬儀をせねばならないところでした。

 ほとんど眠れないままに朝になり、母親が冷蔵庫に締まって置いたおかずと昨夜のみそ汁を温め治して、最後の料理を父親と姉と弟の残された家族四人でありがたくいただいたのでした。
 何度も何度も交代で母親の枕元に座ってはみんなが涙を流したのですけど、悲しくて涙が流れるのではなく感謝の心で涙が止まらないのでした。

 お悔やみの人たちが午前中からお参りしてくれたのですけど、親戚が集まって葬儀の準備を進めてくれたことは心強かったですし自分たちでは絶対にできないことです。
 昼食も夕食もオードブルとお寿司に冷蔵庫の食材を処分しながら女性軍がおかずを作ってくれたのですが、まだ味は分かりませんでした。
 それと喪服の準備をしていて優子が発見してくれたのですけど、姉が気分が悪くて寝込んでいたので治療をして、午後には回復してくれました。就寝前にもまた父親の治療をしたのですけど、事務的な作業は全くできませんし置いてあるものを移動させたりなどもあまり役に立たないので治療だけは頑張らせてもらいました。

 鍼灸院の方ですけど、たまたま祝日であったことが幸いしてすぐに混乱することはなく、電子カルテにしておいた威力で患者さんへの連絡も予約までには完了したのですけど、今回ほど助手が二人いてくれたことに感謝したことはありませんでした。
 そして一人はいつでも治療を任せて飛び出せるほどの技量にしておかなければならないことも痛感しましたし、高柳さんに知らせないままでは気が悪いと電話をしたならすぐ静岡から戻ってきてくれて三人に受付を任せられたというのも今回の流れの中では非常に大きかったです。この三人にも、感謝の言葉が見つからないほどです。

 子供たちを寝かせねばなりませんし優子も妊婦なので必要な睡眠時間を確保するため夜はマンションへ戻ってもらっていたのですが、お風呂はとりあえず二日明くる日の朝には二人とも入れたのですけどその日の夜は実家の方で愛菜がどうしてもおじいちゃんと入るんだと眠い目をこすりながら必死に待っていましたから、その間に信成だけ連れて帰ってお風呂に入れて、愛菜を入れてもらったならマンションへまた送り届けるのでした。
 三日目の午前中には最後に着せてあげる着物を選んでもらい、一緒に入れてあげたい食べ物や思い出の品物を選んでいたのですけど、やはり疲れがかなり吹き出しているのでできることは治療のみですからみんなを順番に診察するのでした。父親も姉もそうでしたが、元気を装っていた弟の疲れも相当にありましたね。

 洗顔のために一度マンションへ戻って愛菜と信成も連れてきたのですけど、その頃には身体を綺麗にしてもらって「納棺の儀」が行われている場面となりました。
 実は小さな子供にこのような場面は見せたくないと考えてはいたのですけど、これは一人だけの考えであり、愛菜も信成もしっかり見つめることで現実がどのようになっているのかを把握したようです。
 既にドライアイスで冷たくなってしまった肉体でしたけど、顔面を触らせてもらうと確かに母親の輪郭であり、思い出が蘇ると涙がまた止まらないのでありました。

 昼食前を利用してしばらく鍼灸院へ戻り仕事再開のための準備をしていたのですけど、とりあえず来年になって合宿があるためこのキャンセルだけ連絡をしておいたなら大量におくやみをいただいていたのですけど、とても返信を書く気分にはなりませんでした。
 しかし、昼食になってやっと味が分かるようになり、まだ二日間近くあるのですから体力温存のために少し昼寝もさせてもらいました。

 夕方になってそろそろ葬儀会館への移動時間が近づいてきました。ということは、実家とお別れをしてもらうということなのです。
 しかし、これはみんなに感謝の気持ちを伝える儀式に出かけるのであり、感謝の気持ちを伝えてもらう儀式に出かけるのであって決してお別れのために出かけるのではありません。

 とても立派にしてもらった葬儀会場は母親の人柄をしのばせるものであり、黄色の花が渦巻きのようになっていてとても素晴らしかったとのことです。
 大きな葬儀にはしたくないというのが口癖ではありましたけど、一つだけ新聞発表があり地域にも知らせてもらったなら参列者は100人を遥かに越えていたでしょう。
 お経の途中では母親がほほえんでいる姿が何度も目に浮かび、「ありがとう」と口ずさむと涙がまた止まらなかったものです。信成も途中までは膝の上でじっとしていて特別な儀式であることが分かっているような漢字でありました。「おばあちゃん、ありがとう」と手を合わせたなら目を閉じている信成でした。

 朝にリハーサルはしてあったものの、父親の母親に対する気持ちがみんなに伝わったお礼の言葉でした。夫婦げんかばかりしていましたし文句ばかり並べていましたけど、あの母親でなければこの父親の特徴を引き出すことは絶対にできなかったはずですし、無茶苦茶な行動力を引き出すようにしたのもこの母親です。
 逆にお金も食事にも不自由したことはありませんし、自分の意志だったかどうかは別として国内では出かけたことのない場所の方が少なく、海外旅行も何度も出かけていましたから力一杯で満足のできる一生だったでしょう。

 お通夜が終わった後には親戚にお膳を囲んでもらい、相当ににぎやかにしてもらいましたからさぞや満足していたものと思います。
 深夜になって昔に助手をしていた木村さんも知らせを聞いて駆けつけてくれ、別れを惜しんでくれました。

 三つの夜を過ぎて告別式の朝となり、もうここまで来たなら決められたとおりに進むだけであり、お通夜を過ぎてからは気持ちがかなり楽になっていました。
 みんなが倒れないように控え室で治療をしていたのですけど、色々と時間の流れる中で「こんなことしかできなくていいのだろうか」と思うのと同時に、「治療があったからこそ長生きしてもらえたのかな」と何度も話しかけていました。

 告別式はもう落ち着いていたはずなのですけど、もらい泣きがやはり止まりませんでした。
 お別れにみんなで花を入れますが、ちょうど抱き上げていた愛菜も鼻を入れてくれました。その表情はかなり複雑だったでしょうけど、とても愛してくれていてかわいがってくれた孫に見送られることは幸せだったと思います。
 そして最後に顔に手を触れさせてもらったのですけど、その輪郭の感触は未だに忘れていませんしもうどうにも涙は止まりませんでした。

 しかし、涙はここまでです。昔は火葬をしてしまうなんてひどいことをと子供心に思っていましたし、祖父や祖母が荼毘に付される瞬間をむごいように感じたことがあったのですけど、次第に色が変わってしまうのですから早く骨だけにしてあげたかったという気持ちの方が強くなっていました。
 ですからバスに乗ってしまえば涙はなく、自宅近くで長く停車していた時も気持ちの揺れはありませんでした。
 最後のお別れの時も、「楽になってよかったね」と声を掛けてあげました。

 もうここからは、その後の経過を記述する必要はないでしょう。
 今執筆しているのはあの瞬間からちょうど一週間経過したその時間帯そのものなのですけど、家の中は分からないことだらけですし新しい生活をどのようにしていこうかもまだまだ手探りですし経理もこれからが勉強ですし、いつまでも悲しんでいるだけでは誰も喜びません。感謝の気持ちはいつまでも忘れないようにしながら、これからのことを家族全員の力で見つめていこうとしています。

 最後になりますが・・・、おばあちゃん、本当に本当にありがとう。