『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

臓器移植法改正案に思う

 2009年6月18日に臓器移植法の改正案が、衆議院を通過しました。まだ法案が成立するかどうかは分からないのですけど、マスコミは特に新聞の論調は歓迎のコメントばかりを出しているので、かなり気になりますからタイムリー制を失わないように投稿しておきたいと思います。
 「ていしんを試作中」シリーズはまだ続くのですけど、臨床での検証作業や理論漬けなどに時間が掛かるため投稿も遅れますから、今回の投稿からはタイムリー性重視へとさせて頂きます。最近の記事一覧からご参照ください。



 「脳死をもって人の死とする」ということで国内でも臓器移植医療が始まったのは、もう十二年も前のことになります。いや、正確には1968年にいわゆる「和田移植事件」として記憶されている世界で三十例目の心臓移植手術が倫理審査をせず強行されたことから国内での反発は強く、海外へ渡航して手術を受けてくる人があまりに増加したことから押し切られての法案成立だったように思われます。ですから、死生観に関する暗黙の了解というものは未だに国内では食い違ったままにしか移りませんし、実際にもそうでしょう。
 欧米での宗教はキリスト教が大多数であり、イスラム教もかなりの数にはなりますけど少数派の宗教徒はそれこそ少数派ですから、政治に及ぼすほどの影響力がないので脳死に対するコンセンサスが一応得られていることになっています。しかし、アジア圏では宗教の数が膨大であり、しかも少数派でも政治力があったり宗教団体から政党が結成されてくるなど複雑ですから、脳死に対するコンセンサスが得られるとは思えません。
 悪い書き方ですけど、欧米での脳死移植は医療テクニックの問題であって、死生観の問題から出てきた分野ではないと思います。防衛会議で様々なシュミレーションをしていると「戦争がやりたい」「どうして戦争にならないのか」という欲求を抱えてくるらしいのですが、「移植がやりたい」「どうして移植手術が出来ないのか」という医療側の欲求の方が強いように移ります。もちろん患者サイドの要求が強いことも知っていますけど、要求をしているのは経済的に恵まれた人たちだけというのも見逃してはならないと思います。

 そして今までネックになっていたことが若年層のドナーを認めていなかったことであり、同時に若年層では移植手術を国内では受けられないということでした。

 何度も改正案が国会に提示されては不成立のままで先延ばしにされてきたのですけど、今日は衆議院でとうとう改正案が賛成多数で可決されました。しかし、四つの案があった中で最初に可決を測ったA案がそのまま過半数を突破してしまったのでした。この案では本人の意思にかかわらず脳死が死であり、年齢制限撤廃が一番大きな快晴ポイントです。これは数の論理であり、反対派からは釈然としないコメントが発表されています。

 確かに生体ドナーからであろうが脳死ドナーからであろうが移植によって助かった命があるのですから、その医療技術を否定することは誰もできません。移植医療」などという言葉までいつの間にか出来上がっていて、治療手段の一つとして大きな顔までしています。
 けれど、脳死移植には一つ大きな問題があります。それは「自分が助かるためには誰かの犠牲がなければならない」ということです。詳しくは脳死移植と鍼灸医学について思うという論文で言及していますから参照して頂くとして、移植医療の水針だけでいいのでしょうか?今回の議決は党議拘束はなかったものの自民党の大多数が賛成票を投じたためですけど民主党には反対派が多く、政党幹部は揃ってA案には反対派であり与野党逆転している参議院での通過は怪しいところです。また本人の意思にかかわらず臓器提供できるということは、あってはならないことですけど臓器提供という形で虐待された子供の死因が追求されないのではという防止策に具体的な歯止めが考えられていません。

 エリザベス・キューブラー・ロスが著述した世界的ベストセラー「死ぬ瞬間」シリーズに、次のようなエピソードが紹介されていました。病棟の少年が指でピストルの真似をしているのです。誰にでも指ピストルは向けているのですけど、自分と同じくらいの子供には特に向けています。「どうしてそのようなことをするのか?」と尋ねたなら、驚くことに「誰かが犠牲になってくれないと自分が助からないからだ」というのです。
 プロレスラーだったジャンボ鶴田さんは、絶頂期に肝臓の病に倒れられました。病院のベッドで悶々と過ごしていた時「おじちゃんはいいよ、いつかは治るんだから、僕はもうすぐ死ぬんだよ」という少年の言葉に、愕然としたそうです。そして「リング上で最強の男として格闘するだけが人生じゃない」と心が変わり、一念発起して退院後はアメリカの大学へ留学してスポーツ医学を学び、帰国してからは筑波大学で研究を続けながら一部リング復帰までされました。その後は手術中に他界されているのですけど、これは肝臓病の再発から東南アジアでの移植手術中の事故と伝えられています。どうして東南アジアの病院だったのか、臓器売買が絡んでいたのではとの疑念がささやかれていますけど、真相は分かりません。
 これらのことを文章だけで読んでいると、「そんなにまでして命を長らえたいのか?」と軽蔑に近い感覚をされるでしょうが、でも自分の子供が突然体調を崩して「移植をしたなら助かります」と告げられたならどのような反応をするのか全く想像できません。私は鍼灸師ですから自らの命をかけて鍼灸の可能性を検証する覚悟はあるのですが、子供や親類となれば少しでも現時点で可能性の高いものを洗濯したいですし、「選択してあげられなかった」という後悔をすることが怖いです。

 さて、もう一度改正案の話に戻します。十年後はまだいいとして、二十年後に移植医療という携帯が保てるのだろうかと個人的な疑問があります。
 現在でも高齢化社会の中で独居老人の数が増えているのですけど、それは子供の独立後に相方が先立ってしまったというケースがほとんどであり親戚が近くにいることは多いですし、また自活できる体力がなくなっても同居ではなくても経済的に苦しくなければ子供がそれなりの面倒を見たり援助をしてくれるはずです。しかし、途中で離婚してしまい子供と疎遠になっているケースもそうですが、未婚のままで老後を迎える人たちが爆発的に多くなっていく時代がすぐそこに来ています。
 すると子供とも疎遠なのですから親戚とも疎遠であり、都会では近所付き合いが今でも希薄なのですから「孤独死」も爆発的に増えてくることでしょう。阪神淡路大震災の時とは、比較にならないくらいの数になります。それも初老を迎えたばかりの年齢層で、病気を軽んじての孤独死が増えるはずです。
 そんな時代が間もなくやって来るというのに、つまりドナー不足は今でも申告なのですがドナーになれる段階では発見されないケースが増えることについて着目されていません。現状での不満をどのようにガス抜きしていこうかという点にしか、着目されていないのでしょう。
 WHOの今年の総会では、海外渡航をしての臓器移植を全面的に禁止することが決議される予定だったのですけど、豚インフルエンザ騒ぎで議題が変更されたことと日程が縮小されたために見送りとなっています。これで一年間は日本から海外渡航しての若年層の臓器移植が可能となったわけですけど、そのことを知っていて国会審議が急がれていたのですが、豚インフルエンザの対応があれでは厚生労働省はもちろん政治家の頭には期待できません。
 それとドイツでは既に実施されていて効果もしっかり発揮されているのですけど、開業医の数をブロック単位で制限して病院の均衡かと無医村の解消に役立っているのに、日本医師会は「開業医の経済的リスクを理解していない」と猛反発しています。
さらに医学部段階で専攻する科目を絞り込ませるか入学段階で人数枠をはめるという案に対しても、日本医師会は「やりがいと適正を損なう」という理由で反発しています。しかし、この言動を見れば現在の「医者不足」とは、日本医師会が自ら作り出したものだということが明白でしょう。
 その上で「移植医療に道を」とは、開いた口がふさがりません。西洋医学が今転換すべきは、「病気になる前の段階をもっと大切にしなさい」ということではないでしょうか。

 鍼灸では「未病を直す」ということで健康管理に継続して来院される患者さんは非常に多く、また「治療を卒業してもらうことが目標「と私は宣言しているのですが、医療の力だけで体調の維持をしてもらおうなどとは一切考えていません。臓器移植が必要になるまでの段階が、やはり一番大切でしょう。