『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

第38回日本伝統鍼灸学会に参加して(後編)、シンポジウムへの意見

 第38回日本伝統鍼灸学会に参加しての後編となります。今回は一日目の教育公園「内経の診察・診断・治療」(浦山 久嗣先生)と、「室町・江戸期の診察・診断・治療」(大浦 慈観先生)から引き続く形で行われた、シンポジウム「伝統鍼灸の真髄を探る」について書きたいと思います。
 話題の特性上長文にならざるを得ず内容も多岐に渡ってしまうので結論が見えにくいところです。そこで、先に私がこのシンポジウムへ追懐腱をするならという結論を書いておきます。集約すれば臨床家の声がもっと出しやすく出てもらえる場を作ることと、日本鍼灸を確立するならどこにも真似できない手法でなければならず思い切って刺さない方向ではどうかということに尽きます。

 シンポジウムの目的は二つあり、一つ目は伝統鍼灸の真髄を語り合いたいということでした。そしてもう一つは、来年度に全日本鍼灸学会との共催大会が行われるのですが、そこで「日本鍼灸とは何か」の東京宣言を二つの学会から出していきたいということでした。というのは、中国を筆頭に韓国や北米・欧州などそれぞれに特徴を自ら宣伝しているのに、日本で鍼灸が行われているということが世界では知られていないことからアピール不足を感じ、これが今回のシンポジウムの土台となったそうです。
 内容が非常に広範囲であり、またフロアから意見を吸い上げるという形が今回は様々な制約からされなかったことから総括が既に出来上がっていての進行だったとも言えますけど、伝統鍼灸ということについては来年の秋に学習会の時にかなりの時間を割いてフロアからの意見も採り入れての最終形態を目指すとのことでしたから内容については中間総括と全体総括を司会者の一人である松田博公先生がなされましたので、著作権などに触れても行けませんからここだけを抜粋させてもらいました。その上で漢方鍼医会の名前にも関わっては来るのですけど、二木個人の意見を大いに書かせて頂きたいと思います。

その前にですが、前回も少し書いたのではありますけどどうして私が伝統鍼灸学会へ積極的に参加しているかについてです。 毎年参加している伝統鍼灸学会ですけど、普段の研修会は個別の団体でありますがいわゆる経絡治療をしている団体が集まって上部団体として学術大会を行っているものです。カレーやラーメンの作り方が千差万別なのにどれも美味しいことを見ても分かるように「技術」の世界は日進月歩の上に独創性の世界ですから、鍼灸という大枠はあってもその中で枝分かれしてしまうことは当然のことです。まして名人という人がでてきたり、理論に秀でて研究集団を組織するなどありますから、例えば大きな団体が二つくらいまでに一度集約されたとしてもまた雨後の竹の子のごとく小さな団体が抜け出していくことでしょう。ですから、上部団体を組織して意見交換していく場というものはとても大切に思います。これに加えて患者さん中心の鍼灸でなければならず、自分の研修会しか知らないという閉鎖的体質からの危険性を感じるからです。
 少し話が反れますが、これは私の実話です。盲学校に小学一年生から通っていると教員以外の周囲にいる人のほぼ全てが視覚障害者なのですから、「車いすの人や聴覚障害者など障害者は他もいるけどほとんどは視覚障害者だ」と私は思い込んでおり、幼少期から盲学校へ通っている人には同じ錯覚をしていたと多く聞きました。しかし、肢体不自由者が80%で聴覚と視覚障害者が10%ずつくらいが私の高校生の時の割合であり、初めて身体障害者スポーツ大会へ参加した時の衝撃はまさに口をポカンと開けていたというものでした。現在では視覚も聴覚もパーセントが減少しているので身体障害者のほとんどは肢体不自由者なのです。さらに驚くべきことは、身体障害者よりも知的障害者の方が遥かに多いということ。自分が特殊な環境の中で暮らしていると、積極的に外を見ようとしなければとんでもない錯覚を現実と混同しているという教訓があるからです。
 だからこそ鍼灸院という特殊な空間を自ら営んでいるのですから、外のことを積極的にミニで掛けなければならないと常に心がけており、伝統鍼灸学会への参加もその一つなのです。安心して診察を受けてもらえる医療であり、鍼灸でなければならないと思うからです。

 では、前半の「伝統鍼灸の真髄」というテーマでの発表の中間総括から。
 伝統鍼灸、つまりそれは中国伝統鍼灸と日本伝統鍼灸のことである。どちらかではなく、そのどちらもを含む概念として考えてみようということで、松田先生個人の生命観とは前置きされながら天神合一の生命観・人間観がないとまずは話にならないと釘を打たれました。それをシンポジストそれぞれの言葉からも説明されました。
 その上で、伝統鍼灸とは自然治癒力を賦活する治療であり、養生にもこれはつながります。この養生とは、決して治療プラス養生の意味ではない。伝統鍼灸の真髄である養生は、生き方そのものなのである、それがうまくいかなくなった時に治療をしましょうというのがそれが伝統鍼灸なのであろう。本標を治療するという言葉が何度か出てきましたけど、同義で構わないでしょう。後からシンポジストにより、本標は時間軸で、バランスの上下・左右・前後は空間軸で、四次元の医療であるという補足もありました。
 またどのシンポジストも診察法があることを協調されていたのだが、病は体表に現れるのでこれを東洋医学の概念で診断すること、これも伝統鍼灸の側面であろうとまとめられました。

 後半の「日本鍼灸とは」という点と、全体総括です。
 中国医学を連綿として受容してきたが、同時に日本ではシンプル化してきたのではないか。中国では哲学的であり観念的な要素があり言い換えれば呪術的なところがあるのだが、受け入れたのではあるがシンプル化して、実用的なものとして受け入れたのではないか。そのようにして日本独自の改良が加えられてきた。
 ここに腹診や腹部への治療というのは、陰陽・虚実・表裏・寒熱など強固な二元論で構築されている中国思想からの一元論に通じる脱構築であり、シンプル化の一側面と見ていいのではないだろうか。また宗教観も鍼灸に反映されているのではないだろうか。第一次の日本化は医心方にあるといわれたが、この時点で既に編集が日本式であり、研究者によれば陰陽も経絡も脉診もほとんど排除されていてシンプル化が既に見られるという興味深い報告もある。仏教においても既に平安時代よりインドや中国と異なり、異端といわれても仕方ないほどシンプル化されているとのこと。
 これは、どうしてそのようになってくるのか?やはりこの国の風土が、景観豊かな地形が・豊かな食物が「八百万の神」という思想を生み出し、そこでは天地人・陰陽など二元論的構造ではなくもっと混沌で一元論的思想を持てる風土を抜きにしては、日本人の固有の思想性は語れないのではないか。そのシンプル化された分のエネルギーは手技・手法へと注がれ、技術を洗練させるという方向へ向かったのではないだろうか。
 このようなことを考え合わせると、どうも日本人の気あるいは気の特色は中国とは違っていて、中国の気は哲学的で宇宙論的だが日本の気はそれらを受容しつつも、縄文時代やそれ以前からはぐくんできた土着の概念とファジーに融合し雰囲気や気分などという日本的な気の概念が広がっていったのではないだろうか。日本の針灸科は、どうしてもそのような言葉や概念を使っている。病気というものも、中国と日本の理解の仕方は違っている。気というものは根元的なものであるから、そこが違っているために中国と日本の鍼灸も違ってくるのではないだろうか。日本の鍼灸は理論も技術も多種多様であるが、これは「八百万の神」のように折衷してきたためのものであり折衷という方法を日本の豊かさとして打ち出していければ日本鍼灸の未来はまた開かれていくのではないだろうか。新しい鍼灸が、日本の中から生み出せていけるのではないかと期待をしていると結ばれました。


 さて漢方鍼医会がこのシンポジウムに参加していたならどうだったでしょうか?現在の伝統鍼灸学会はそれぞれに所属する団体名などを付けて発表をしていますが、実は個人参加であり団体ごとの参画ではありません。実質的にはその先生の発言が団体のスタンスと捉えられてしまいますけど、漢方鍼医会全体のことを考えながら「二木だったらどう発言していたか」という意味でここからは読んでください。
 まず全体的な流れとしては、名だたる先生たちが議論されたのですから「それは違う」という部分はありません。ただ、立場上仕方ないのかも知れませんが切り口がやや極端であり、古典にできる限り忠実でありながらも臨床へ生かせるものはどんどん取り入れてきた漢方鍼医会としてはそれこそ折衷路線だったかと思われます。しかし、今や漢方鍼医会の大きな特色になっている「ていしん治療」については強調をしていたでしょう。入門では「手を作る」ために必須としているのですから、毫鍼を決して否定などせず重要視していますが、「ていしん治療」の修得を目的に研修している人が多いのは確かです。二木がていしんのみで臨床をしている立場から結論しては行けないのかも知れませんが、漢方はり治療の行き着いた携帯の一つとして「ていしん治療」があるのですから、ここは強調すべき点となります。それを踏まえて・・・
 「伝統鍼灸の真髄」という点では、中国古典に書かれている中には衍文があり必ずしも全てが正しい訳ではなく、先輩諸氏が教授してくれた情報が全て正しいわけでもなく、特に難経に関しては一つ一つを臨床の中でもっと検証して行かねばならないと捉えています。例えば治療法則は六十九難だといわれていますが、七十五難の治療法則は現代ではどのように活用すべきか、あるいは治療法則とはいわれていないが四十九難や六十八難や七十六難など治療に大きく関わる部分をどのようにすべきかはまだまだ解き明かされていないと思われます。古典が積み上げられてきたということはそれだけ改良の余地があり原点を知ってこそ現代の治療法となるのでありましょうから、治療法を固定せずあらゆる方法でアプローチできることこそが真髄ではないかと捉えます。研修会ごとに特徴的なスタイルがあって証決定はイコール治療スタイルの決定となっていますけど、それは「ある研修会」の治療方式であって伝統鍼灸の真髄といえるのだろうか?とおもいます。
 伝統鍼灸の真髄というのであれば、鍼灸に応用できる治療のあらゆる面をカバーし場面ごとに切り替えられる柔軟性があってこそのものであり、漢方鍼医会はそのような方向性を目指して研修を続けてきました。また鍼灸全体が非難されている治療機序が説明できないことに対しても、自分たちも納得をしたいですしもっと深く中身が分かりたいということで漢方の病理を重視し、病理考察に基づく証決定を行ってきました。

 それから西洋医学はもちろんですが鍼灸においても数値や統計により治療の適否や効果について判定しようという傾向がありますけど、目には見えない経絡や気というものを扱っている鍼灸がその方向でいいのだろうかという疑問がかなり以前からあります。新開発の自動車が発売されて「様々なテストをしてもこれくらい低燃費でこんなに走行できるんですよ」という宣伝を信じてユーザーは購入するのですけど、必ず宣伝されたとおりの走行性能を発揮しているかといえばかなり違っているはずです。渋滞に巻き込まれたり田舎の狭い道を走ったり荷物を沢山積んでいたりすれば、従来エンジンとそれほど変わらないと思います。確かに三十年前の自動車からすれば大幅に違っていますけど、数字は必ずしも絶対的なものではないということです。では鍼灸の世界には数字や統計は不要かといえばそうでもありませんけど、生きた臨床現場からの報告をもっと重視する姿勢であるべきだと思います。
 臨床家は学者に比べれば文章の執筆能力に特に秀でていなければ発表そのものが稚拙に映るでしょうし、データを提示しろといわれたなら手も足も出なくなってしまいます。しかし、生き生きとした報告内容が読み取れるのであれば形式が多少崩れていたとしても主催者の配慮で優先的に発表できるような形が望ましいと思われます。鍼灸の国際学会が開かれた時ツボは番号で呼ぶのがルールとされていたのですけど「それでは意味が通らないから」と、福島弘道先生は経穴名で発表されたとかなり昔の話ですが聞いたことがあります。伝統鍼灸の「いい話」を残そうとするなら、それくらいでもいいのではないでしょうか。私も発表は数年に一度しかしていませんけど、最近の伝統鍼灸学会で必要なものは臨床現場からの声だと感じています。整ったものが必要であるなら、発表後に補えば済む話です。

 次に「日本鍼灸とは」という点ですが、先輩諸氏がなされてきたことをまとめて表現するのですから松田先生の総括に口を挟む余地はありません。ただし、現代は情報化社会であり鍼灸に関してはまだまだ秘伝口伝の世界ではありながらもインターネットモ活用しながら格段に情報は増えており、ここに落とし穴があると警告します。つまり、「この時にはこのようにすればいい」と書かれているものを実践しても効果がなければ「もうちょっと刺してみようか深さが足りないのか」と、鍼が簡単に刺さってしまうので深く深くになってしまいます。中医学の実情を見れば、この傾向は明らかです。しかし、この流れのままでは繊細な手技や浅い刺鍼での技術を確立してきた歴史をすぐダメにしてしまいます。
 そこで発想の転換をして、思い切って刺さない鍼へも今後は目を向けるべきではと思います。はり麻酔で全世界に脚光を浴びた鍼灸ですが、同時に鍼は効くが痛みも伴うのではとの疑念を素人には抱かせてしまいましたので、「刺さない鍼が日本鍼灸なら出来るんだよ」というアピールがあっていいと思います。
 鍼の製作技術が発達したために深く刺鍼することが簡単となって、また深く刺すことで劇的な治癒が時々もたらされるのも事実ですから、「鍼は刺してなんぼ」という図式になっていくのでしょう。けれど九鍼十二原篇の時代に既に刺さない鍼が三種類書かれているので、刺鍼するだけが鍼灸術でないことは明白です。まして古典に書かれていることは大部分が病理に関することであり証決定に関することであって、いかに気を動かすかが書かれているのです。決して「この経穴にいくら刺しなさい」とは書かれていないのです。そうであれば、日本の繊細な技術をより生かすなら、刺鍼することにはこだわらないことです。素人から求められているのは治療効果だけでなく、苦しみを伴わない安心して受けられる医療であり鍼灸なのです。日本鍼灸を確立しようという大きな視点に立てば、一人一人の鍼灸師のエゴなどどうでもいい話で人類の幸福のために寄与する鍼灸術を構築すべきです。そのためには、思い切った発想の転換があった方がいいと思います。

 思い切った発想の転換という点では、鍼の評価が高まらない要因の一つである手法の的確さについて客観的に評価できる方法を導入すればと思います。今まで手法をマスターするには先輩から直接手ほどきを受けて臨床へ投入していく方法しかなかったのですけど、九鍼十二原篇の補法・瀉法ではなく漢方鍼医会では難経での衛気・営気の手法で臨床を研修していますので、この手法を腹部で練習していたなら良くも悪くも反応が出ることを発見しました。これを応用することで手法の的確さを客観的に評価できる臨床的手法修練を追求しています。この方法も用いながら手法を会得するなら、決して鍼を刺しすぎることはなくなるでしょう。
 さらにビデオでこの様子を撮影することに成功していますし、さらなる延長で手法の時間についても撮影に成功してホームページ上で既に公開しています。経絡や気は目には見えないものなのですから、見える形に変換して証明ができればそれだけで充分であり、ていしんで臨床が成り立つという証拠のビデオにもなるでしょう。次の目標としては、経絡の存在が体感できる方法とそのビデオ化なのですけど、手がかりを探している途中です。

 私も切り口がやや極端で話が膨らみすぎている面はありましたけど、結論を繰り返すなら臨床家の声がもっと出しやすく出てもらえる場を作ることと、日本鍼灸を確立するならどこにも真似できない手法でなければならず思い切って刺さない方向ではどうかということに尽きます。
 私は毎日の臨床がとても楽しくて仕方ありません。毎日が勉強なので患者さんに心の中でわびていることも多いのですが、その教訓は必ず次の機会では還元しているつもりです。そのなかで一つずつ分かってきたことを身につけ、少し前よりも腕が上がっていることを実感できているのですから毎日がとても楽しいのです。