『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

助手修行について思うこと

 今回は、年度替わりことに、こちらでも頭痛の種になっている助手修行について書いてみたいと思います。ちなみに、ここ数台の助手はほぼ間違いなく滋賀漢方鍼医会に既に学生開院として所属していた人もしくはその会員からの推薦であり、勤務状況も安定していましたから新人募集について苦労をした印象がありませんでした。しかし、今回は該当する学生開院がいないことと、一度はこれで決まりだろうという人材に巡り会えたのですけど逃がした魚が大きかったむなしさがあるのか、スタッフ募集についてというページを作成して次移行のことも考えていたりします。

 鍼灸師として一人前の仕事をしようとしたなら、まず修行をすることが第一です。医術なのですから経験値が絶対に必要であり、その経験値は独力で積み重ねて獲得で着るものではほとんどありません。患者の貴重なる犠牲の上に経験値は積み重なっていくのですけど、独力では犠牲の数があまりに膨大となってしまいますし、それが最終的には実を結ぶものかの保証もありません。けれど師匠の元で修行をしていれば犠牲といっても本当に被害のでる確率が極端に少なくなるからです。助手経験者が早く成功すると言われているのは、経験値があるからなのですけど本当の経験値とは失敗をした時にどのようにして修正をするかについて知っているからだと言われますし、実際に荘だと思います。
 私の同級生に全盲がゆえに助手修行がかなわず独力で開業した先生がいるのですけど、研修会で常に悩みや失敗についてみんなと情報を共有し解決へと取り組んできたのですが、最初の10年間は本当に苦しかったと言います。今のようにインターネットが発達していてメールの返信がすぐもらえたり、場合によってはスカイプなどで時間を気にせず話を聞いてもらえるという環境もなかったのですから、孤独な戦いだったでしょう。そして環境が整った今でも、リアルタイムでの情報共有とはならないのですから、少なくともその現場からはヘルプが出せないのですから経験値は絶対に必要です。

 私はといえば、学生時代に研修単位取得ということで大阪の鍼灸院を見学させてもらい、ここでの十日間の勉強が今の人生を決めています。基礎知識としてはそれなりに勉強していたつもりでしたけど、臨床現場での対応はもちろん教科書通りではなく、分からないことだらけですから往復の電車の中では点字の教科書をひっくり返してばかりでした。「必死」というのはあのような状況のことをいうのでしょうが、「必死」の状況だからこそ知識は一発で全て覚えられましたし実技についても疲れている先生に頼み込んで教えてもらい、すぐ反復練習をしていました。
 そして「近畿青年洋上大学」でのこれも必死の医療行為が知識と実技を結びつけてくれて、その情熱で助手修行を頼み込んだなら私の師匠を紹介してもらえたのでありました。スタンダードな治療形態ではなかった私の師匠ですけど、最初に「絶対に師匠のことは批判しない」と決めていましたからスタンダードな形態にして欲しいという不満は多々ありましたけど、そして目の具合で修行期間を短縮せざるを得なかったのですけど、最後まで批判することをしなかったのは自画自賛ですが今の自分を作ったと思っています。

 そして私が今度は助手を取る番になった時、受けてきた厳しい人間修行は必ずやろうと思いました。学生時代に初めて足を踏み入れた臨床室での多様性、そして社会人になって初めて知った仕事の厳しさ、人間関係には恵まれていましたけど人生の土台というものは若い時に下積みをしなければ堅牢なものは出来上がらないという実感があるからです。
 決して昔の徒弟制度のようなことはしませんし暴力ももちろんないのですけど、研修会への義務参加と会務分担に加えて、患者の体位変換など時間の掛かる作業は全てさせています。ローラー鍼と円鍼は仕上げの時に必ず行うものですが、時間があったとしてもこれは必ず助手の役目なのですけど、仕上げの皮膚状態を確認して覚え込むということではとても重要なプロセスです。
 現在で特徴的なことといえば、ベッドへ院長が歩いてきたなら先回りしていて鍼をタイミングよく渡すという、ちょっとだけ懐かしい制度があります。昔は往信用の鍼箱を風呂敷に包むところから始まり、鍼の持ち方から渡し方までが修行の第一歩だったと聞きますけど、現代では衛生面で鍼を手渡しするというのは御法度ながらそこは「ていしん」のいいところで、衛生面についてはクリアしています。鍼を手渡しするということは、治療目的を常に考えることができるのです。どれだけ全体の流れをよくしていくかという面でも、この精度は止めるつもりがありません。私が修行をしていた時には、病状によりどれくらい置鍼が必要かを計算しまた鍼の種類も計算して師匠に渡していたものでした。それに比べれば「ていしん」を渡すだけなのですから、まだ頭の使い方は足りないくらいです。

 問診を行い情報をコンパクトにまとめ治して院長へ伝えるとか、カルテ記入や受付から掃除などは、これは当たり前の業務であり人間修行の範疇とは捉えていません。けれど掃除を嫌がる人が時々いて、これは論外ですね。
 苦い思い出になるのですけど、「鍼灸は私たちは尊い仕事をしているので」とすぐ口にする人がいました。尊い仕事かどうかを決めるのは「やる側」ではなく「受ける側」、つまり患者さんの心次第だということを何度も話しました。また「評価は院長に対して行われているのであり助手がやっていることなど眼中にはない」ときつく指導もしたのですが、根底がこのような考え方では修行は完成できませんでした、やっぱり。
 「自分を認めて欲しい」「自分の価値を見いだしたい」という理由で鍼灸師を選んだ人も、根底が治療は患者さんのためではなく自分のためだったのですから、これも修行が完成できませんでした。それを見抜けず入れてしまった私も、激しく落ち込みましたけど・・・。

 鍼灸学校へ、特に夜学へ入学してくる人の大半は一度社会人を経験している人がほとんどであり、助手修行がかなう年齢でなくなっているケースもほとんどです。職業選択の自由は保障されているのですから自らの人生を掛けてのことなのでそこはいいのですけど、社会人を経験せずストレートに進学してきた若い人には、是非とも助手修行をして欲しいと思います。
 残念ながら現状では鍼灸師が自分の思い通りの仕事をしたいと願う時、開業をするしか道がないからです。しかし、開業鍼灸師の現状はもっと厳しいものがあります。拙劣な自分本位の技術では、まして研修会にも所属せずお山の大将をしていたのでは技術が伸びるはずなどありません。若い時に人生の土台を作るためにも、高いレベルでの技術を磨き維持するためにも、助手修行が実は一番の近道なのです。
 昨日の月例会でも取穴実技が「取穴書」によりみんなうまくなっているのですけど、そこまでうまくなっていればツボに触れられるだけでなくピタリと真上へ指が乗せられるようにと追求してくると、実力差が顕著にそれも客観的に現れてしまいます。ため息をついている人が何人もいたのですけど、「ずるをして近道で取穴を取得することはできない」と話しました。私のこの攻撃的な面を持っている性格でさえ、技術習得は正道を進むしかないと反復練習をしてきましたし、結局は正道が一番の近道なのです。これが自然とできるようになったのは、やはり助手修行を経験しているからだと思います。
 臨床年数がこれだけになってきていても、未だに思い出すことは助手時代のことが半分です。それだけ濃度の濃い時間を過ごさせてもらったということであり、その思いがあるからこそ私の助手たちにも修業時代のことが心に残るようにと配慮はしています。技術力が高く未来へ鍼灸術を残したいと願うなら、まずは修行です。