『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

第19回漢方鍼医会夏期研大阪大会に参加して、次回滋賀大会への課題

 2013年8月25日(日曜)から26日(月曜)にかけて、大阪漢方鍼医会主催(共催は漢方鍼医会本部および各地方組織)による『第19回漢方鍼医会夏期学術研修会大阪大会』に参加をしてきました。
 今回は主題に「漢方はり治療の新たなる創造」、副題に「脉状診〜その臨床的意義」ということで、脉状診へスポットを当てるということでした。過去にも脉状診にスポットを当てた大会は何度か開催されているのですけど、豊富な資料から脉状の解説をしてもらいました。けれど蓋を開ければ邪正論での実技が大きく取り入れられた大会であり、脉状診がメインだったのか邪正論の治療法を取り入れていくのがメインだったのか、リンクさせなければならないのでしょうが邪正論一辺倒になっていた大会と表現した方が、全体の特に研修を受けていた側の雰囲気としては正しいかも知れません。

 私は既に講師としての参加の方が長くなっているのですけど、今年はそれ以上に来年にはこの夏季学術研修会を滋賀漢方鍼医会が主催をするということで、主題と副題を継承することは既に決定していましたから「どのようにすればもっと強固な土台作りにつながるのだろう」という目線でも見ていました。
 新しい学術を、それも新しい実技を持ち込む時には産みの苦しみが伴うものであり、また混乱や摩擦や拒否反応もあちこちで生じるものです。主催者はそれを承知で突破しようとしますから、当然のごとく強引な進行が入ってきてもしまいます。これは仕方のないことで、第15回大会で腹部を用いての臨床的手法修練法を私が持ち込んだのですけど、二年かけてやっと採用してもらったものであり、正当な評価を受けるには数年間を要しました。また該当する経絡を軽擦してまず選経を確定し、その後に選穴を絞り込んで正しい取穴から治療へという流れも第15回大会で取り上げたものですが、今や当たり前の皇帝になっているものでも最初は拒否反応さえ合ったものです。ですから、お世辞にも親切とは言えなかった実技進行については、理解をしています。
 しかし、主催者側は基礎実技に沢山時間を割いて土台形成をしたと主張するでしょうが、私や滋賀漢方鍼医会から参加した会員には、とてもそうは思えませんでした。じゃ正論での実技をとにかく根付かせるために突っ走っており、ほとんどの参加者は「あの時の実技は夢を見ていたのではないか?」と、未消化の部分があまりに多いというのが実態じゃないでしょうか。治療法を獲得できた参加者には大きなお土産となり私も相当な試行錯誤はしましたけど治療スタイルの中へすっかり定着しているのでとても感謝をしていますけど、それは既にスタイルが確立している講師レベルの人たちがほとんどであり、邪正論を大きくクローズアップするには時期尚早でなかったかというのが本音です。

 では、よかった点もそうは思わなかった点も、時間ジクに沿って報告していきたいと思います。
 まず開会式から会長後縁・基調講演ですが、特に会長後縁は流れるような話し方でとても聞きやすいものでした。内容については研究部レベルでないと理解できないことが多く、また資料を参照しながらでないと早すぎるので視覚障害者にはちょっとつらい面がありましたけど、これは録音でカバーすればいいでしょう。基調講演ではユーモアを交えての話であり実行委員長がいわれるほど声が聞き難くなかったのですが、こちらも資料を参照しながらでないと早すぎることと要録そのままだったのでもう少しおまけがあってもよかったのではないか、特に入門部へのおまけがあってもよかったのではないかと思いました。そして結論が私だけかも知れませんがよく理解できなかった点、ハッキリと宣言して欲しかったです。それからどちらもそうだったのですが、司会者は最初と最後の挨拶だけであまり司会者の意義がなかったように感じました。

 実技一時限目は昨年発刊された「取穴書」から、大きく変更された・位置が明瞭になった経穴を選んでの実技と、腹部を用いての衛気・営気の手法修練でした。この時間についてはハッキリ言って不満だらけであり、講師と実行委員会の反省会の中でも不満は話しておきました。
 まず取穴について、一番「取穴書」が訴えている大切な部分を読み飛ばしてくれていたのでこれにはガックリです。どうして元委員長を務めて頂いた先生が在籍している地方組織なのに、この実技の進め方を承認してしまったのかも不思議です。例えば足三里については連線上で取穴をするということ、つまり体表が筋肉によって緩やかに膨らんでいるため、それに合わせて取穴することが大切であるということを記載しているのに、ここを読み飛ばしては「取穴書」が表現している意味がほとんど通じていません。
 また取穴実技はその後の脉状診の土台とするため脉状への変化が生じることをメインにするのか、純粋に取穴技術の確認をメインとするのかの質問をしておいたのに、どちらも狙うため数を減らすという回答だったものが当日になって無視されていたのも不満でしたね。数が減っていないものですから「せわしないなぁ」というのが印象であり、モデルを次々に変更して対処はしたものの一つの経穴に対して班員の半分しか練習ができないのでは、余計にストレスが高まりました。
 腹部を用いての衛気・営気の修練ですが、よい手法に対して上達を早めるために悪い手法を説明する意義は分かるのです。しかし、講師合宿で「未だよい手法に到達していない人へ悪い手法を実演させることはないだろう」と異議を唱え、講師が実演するか手法ができていない人へ欠点となっている部分をより強調して行ってもらうだけでよいということになっていたのに、全体的に徹底されていませんでした。これは「この病体には衛気か営気のどちらが適合するのか」の判定を飛ばしているため、研究部でも何をやっているのかが参加者に理解されていなかったとも聞いています。
 「この病体には衛気か営気のどちらが適合するのか」と、標治法レベルでは共通した手法の適合があることを利用して開発された修練方なのですから、原理を飛ばして発展させようというところにカテゴリーエラーが生じてきます。私は必ず適合そのものは診断してから取り組んでいるのだと思っていたのですが、講師によってはそうでなかったようですね。滋賀漢方鍼医会の会員は、こちらの方が絶対にわかりにくいという評価であり、よい手法の判断基準さえわかりにくくしていると手厳しい評価をしているケースもありました。

 二時限目は基本的な脉状、祖脉を一つ一つ確認していこうというのが前半でした。これも沢山の項目があるので進行が早く、「せわしない」という評価が多く、班員全てに回りきっていなかったことへも不満がでていたようでした。また座位で修練することに私はそれほど抵抗はなかったものの、研修部レベルの人には難しかったという声を多く聞きました。
 さて、今回の夏期研前に「どのようにすれば中身をうまく伝えられるだろう?」と、時間を費やして準備をしてきた実技でした。遅数に関しては、これは誰でも判断ができます。浮沈に関しては、まず菽法の指の沈め方と浮かせ方が分かれば、後はどの位置に脉が集中しているかだけの判断なので、指の動かし方さえできていれば問題ないと思いました。ただし、「問題はない」と私個人が思っていただけで、菽法脉診の指の動かし方が省略されていたために混乱を招いていたようです。研究部レベルの人でも菽法の指の動かし方が徹底しておらず、その場合には混乱をしたようですね。ここは講師合宿で「先に菽法の位置の決め方を復讐すべき」と提案しておいたのですけど、残念。
 次に虚実が来るのですが、ここで私の方から質問をしました。「胃の気脉とはどんな脉状か知っていますか?」。柔らかく徹夜があり触っていて気持ちいい脉だとか、治療終了後の脉状のことだとか意見はでたのですけど、ハッキリ「これが胃の気脉」というものを触ったことがありませんし、胃の気が充実した状態を実感したこともないという意見でした。そりゃそうです、私だって「沈めて陰経・浮かせて陽経」という脉診で教えられていた時代には治療の最終段階では中間にまとまった脉にならなければならず、それが柔らかくて太さがあってという条件を満たすことは事実上不可能でしたから、漢方鍼医会が始まった頃には胃の気脉がイメージと合わなかったことを覚えています。そして菽法脉診になると中間で整うのではありませんから、余計に胃の気脉そのものを知っておくことが重要になります。
 これはやさしく分かる「ていしん治療」、講習会を終えてで紹介しているように、腰痛のモデルをベッドにあげて最初は痛みを感じている脉状を観察してもらい、次に思い切り足を曲げて痛みを解消させ大きく変化した脉状を確認してもらいます。「これが胃の気脉だ!」ということで共通理解をしてもらいました。「事実の方が先にあるのですから自分の感覚をそちらへ合わせるように修練すること」という説明、自分の胸にも叩き込むのでありました。この説明と指での確認、自画自賛ながらとても分かりやすい。この胃の気脉を含んだ状態で五臓正脉と菽法の位置を兼ね備えたなら完璧なのです
 そして虚実をまた後回しにして、滑鯆(しょく=渋)なのですが、これも冷房の効いたホテルだと渋の脉状を呈している人は必ずいるもので、そのモデルへ井穴刺絡を加えるならどこがいいかをまず私が探しました。井穴を強く押さえると擬似的に刺絡状態が作り出せますから、井穴を押さえて綺麗な脉状を造り話して渋の脉状に戻すということを繰り返して、渋の脉状も共通理解してもらいました。これも自画自賛ですが、とても分かりやすい。浮沈と遅数と渋に胃の気脉までは共通理解ができましたから、祖脉の完全制覇まであと一歩です。
 それで虚実なのですが、あくまでも祖脉における虚実ということでモデルの病症を問診しながら「これは実に分類していいだろう」「これは虚へ分類するものだろう」ということで、邪正論を用いるかどうかに的を絞って伝えていきました。この時点での私の理解ですので、あくまでも邪正論での治療に用いやすいかどうかということに的を絞ったという意味です。
 ということで、私の担当班では後半も含めて混乱は生じなかったものの、他ではかなりの混乱が見られたようです。中には講師が治療をしながら脉状の変化を作り出して見せていたらしいのですけど、それは主催者の意図を反映しているのか?というところですね。それから祖脉での虚実と、特に陰実証に用いる実脉との間の整理がなされていなかったので、これは沢山の質問が飛んできました。
 肝実の脉は「結ぼれるが如し」で菽法の上から下まで途切れることのない脉状を表現しており、文字通りですが肝の臓が実になっています。実とは陽気が充満・停滞していることであり、病理もハッキリしており脾虚肝実証か肺虚肝実証としての治療が必要になります。祖脉での実とは、虚実どちらの要素が強いかということを表現しており、実の要素が強いのであれば邪に当たっているということで営気の手法を用いるとより治療が直接的で簡便になることを意味します。
 けれど肝実証は肝実証として治療しなければならないものであり、安易に邪正論で片付けられると思われては困ると危惧をしています。気血津液論と邪正論を表裏のようにこの時点では捉えていたのですけど、後から大阪漢方鍼医会の先生へ質問する機会があり、まず脉診でどちらの方法かを選択しようかということはちょっとエラーがあったようです。要するに診察方法がまるっきり違っているのであり、例えば暦を作るのに太陽を基準にするのか月を基準にするのかのようなもので、「一月」を表現していてもかなり違ったものになるのですけど最終的に帳尻が合っていて使うのに差し支えがなければいいのです。治療する手段が一つ増えたということで、使い分けについてはこれからの課題でしょう。

 懇親会については、若い女性でお相撲さんのコスプレが登場し、ジャズの生演奏があって生ビールが美味しくて、ここは文句の付けようがありませんでした。
 二日目の最初はパネルディスカッションであり、この運営方法については昨年に何度もリハーサルをしてしっかりしたマニュアルがありますから予定通りの盛り上がりとなりました。そして昨年と同様に、テーブルディスカッションが盛り上がったところで終わりになりますから、もっと時間が欲しかったという意見が大半でしたね。この対処は時間割の調整でできますから、来年の滋賀大会ではテーブルディスカッションに充分な時間が取れるよう配慮したいですね。
 三時限目ですけど、研修班では講師が普段の臨床をできる限り再現して参加者へ見せるということですから、白衣を持参してできる限り治療室を再現してきました。二つ治療を行いましたが邪正論での実技はなく、一つは難経七十五難型での肺虚肝実証であり、もう一つはバセドー病の疑いのある数脈なので陽経からの治療(本体は肝虚陰虚証であると判断し剛柔を応用して右偏歴へ衛気の手法)でした。他にローラー鍼と円鍼は班員全員に体験してもらいました。、
 四時限目は総合治療であり、できる限り班員に任せて証決定ができるまで口を出さないようにしておきました。研修班ですから最後は軽擦をしてまず選経を確認するということでいいのですが、病理に固執する人や脉を優先する人など、そんなところだったでしょう。ここは難経七十五難型の肺虚肝実証と、邪正論で脾経の隠白という二つの治療になりました。しかし、脉・腹・肩上部が同時に改善している「三点セット」の確認がおろそかになっている人が多いというのは、研修班だからこそ残念でした。
 他にも三点セットと口では言いながらも、厳密に確認していないという話を入門部・研修部・研究部のそれぞれに参加していた滋賀漢方鍼医会の会員から多く聞いたこと、残念でした。脉状診をより自分のものとしたいなら、その裏付けを取って必ず事実と一致していることを確認せねばならないということ、この基本が分かっていない人が多いということですから本当に残念です。


 総合的な感想なのですが、まずは邪正論という新たな治療手段を漢方鍼医会全体で得られたことがとても意義ある大会でした。そして大阪漢方鍼医会の献身的な準備と抜け目のない運営には、心から敬服をします。大阪では三回目の開催となったのですが、いずれも新しい学術が提示されてくる土地だという印象が根付いた感じがあります。
 しかし、大興奮のうちに大会は終了したのですけど前半でかなり辛口に批評してきたように、裏返せばスケジュールがあまりにきつすぎたことも手伝って基礎技術がおろそかになってしまった大会だったと私は評価せざるを得ません。大会終了直後に開いた来年の実行委員会では、この抜け落ちてしまった基礎修練について徹底的に洗い直して全体理解の元で修得することが、主題と副題を継承する義務だろうという話でまとまりました。もちろんそれだけでは発展性がないので研究成果を組み込んでも行くわけですが、それでも個人ではなく全国レベルで基礎修練があまりにも甘いというのが実行委員会での話でした。

 最後に少し長めになりますが、どうして私が基礎修練にこだわり繰り返し修練できているのかについて、書いておきます。普段の私を知っておられる方なら、「あの二木が基礎だけはきっちりこなしているのが不思議」といつも思われているでしょうけど、基礎があるからこそ自由奔放に楽しく治療ができていることを分かってもらえると思います。

 普段の正確からは、「石橋をたたき壊してしまうほど」繰り返し基礎修練を行っていることが不思議に思われているようですが、これは初めて部活動に取り組んだ盲人野球(グラウンドソフトボール)での鍛えられ方に由来しています。中学二年の頃にはまだ調子がいいと0.2くらいの視力があったものの、先天的な片目からくる立体感がないためにフライを捕ることが出来ず、また近い将来の視力低下が不可避だと想定されたので最初から全盲選手として育成をされました。全盲野手がキャッチをすれば必ずフライアウトと同じになるというルールですから、盲人野球というくらいなので投手が全盲選手であることはもちろん全盲野手の起用法もかなりのウェイトを占めます。それだけに全く見えない状態でボールをミスなくキャッチするというのは至難の業です。野球はご存じのごとく、一つのエラーでゲーム展開が変わってしまいますから守備の時には常に緊張状態であり、自分のところへボールが来るのは何十分の一なのですが、そのエラーが許されない上に連係プレーは弱視選手任せということになるので、責任だけが重大な役回りですね(笑い)。
 責任だけが重大な全盲野手の守備なのですけど、まずは打球音だけで前後と左右のどこへ動くのかを聞き分ける訓練から足音を消して実際に動く訓練、そしてキャッチをする身体の動かし方と、一つの動きをミスしただけでキャッチが出来ないのですから、この練習には涙を何度流したことか。今でも部活動のことを思い出すと、勝った大会や試合のことよりも、この基礎練習のつらさの方を先に思い出します。
 一年目で野手にはあまり素質がないことを自覚しましたから、投手へ起用してもらうまでの数年間は余計にこれはつらかったですね。ちなみにゴールボールはボールをキャッチしなくても身体で弾けばとりあえずはいいわけで、その後にはこちらの攻撃がありますし、卓球にしてもレシーブ=攻撃になるリターンですから、どちらも性格的にも動きからも性に合っていました。水泳が一番合っていたというのは、自分でも驚きでしたが・・・。
 そして普通だったなら競技種目そのものを変更しているところなのですけど、都会の大人数ではない田舎の少人数の盲学校ゆえに「出来る人は全てをこなさなければならない」という宿命があり、盲人野球は中学入学から先行か卒業までの九年間をプレーしました。全盲野手の守備を会得する中で、「楽をしたかったなら逆に基礎修練を一つ一つ厳密な形で繰り返すこと」が身に浸みて分かり、基礎修練は一つ一つの完全なる積み重ねが大切だということを教え込まれたのでありました。
 これらの重いが「鍼の素晴らしい先生に自分もなりたい」と思った時から、基礎修練を一つ一つ完璧に積み重ねる習慣へとつながっていくのでありました。そして滋賀の月例会では基礎修練を徹底的に行っていますから、「滋賀漢方鍼医会の会員ほど手法の全体レベルの高いところはない」と自負していますし本当にその通りだと思っているのですけど、その点が他の会員からもよく見えていたようです。