『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

胃の気・胃の気脉について思うこと

 私が開業をしたのが平成元年の3月でしたから、丸25年を経過し26年目に突入しています。年齢も今年で49歳、来年はまた一つ大台に乗ってくるわけですけど、順風満帆な鍼灸師人生では決してありませんでした。これからは楽になるばかりと限りませんけど、それでも大きな転換点を迎えようとしているので少し書き残しておきたいと思います。

 その前に少しくどいですが、転換へ至るまでの経緯を段落としてまとめます。もし面倒なら、この段落は飛ばして読んで頂いても結構です。
 仕事量では新しいもの大好きの土地柄だったので開業直後からそれなりの人数があり、また極めて浅い鍼ということで痛みも感じなかったことから噂のブームが何度かあり、大きな落ち込みを経験することはありませんでした。しかし、どこまで行っても難しいのは人事です。最初は助手を入れようとして何度ものアクシデントで何年も延期となり、その後もかなりの人たちは修行を終了し独立していきましたが、途中で挫折した人もいましたし懲戒解雇というケースさえありました。また完全に個人的なことですけど、結婚が遅く周囲に心配を随分と掛けました。
 そして間もなく新年度ということで今度は二人も一度に助手が入ってくるのですけど、ここへ至るまでの一年間は本当にしんどかったですね。清掃専門のパートさんが退職となるところへ助手が一人になってしまう、これだけで充分に大変なことでしたがその助手が通勤ということで勤務への不安をずっと抱え続けていました。よくぞ一年間頑張り通してくれました。
 その不安定なところへ、長年の懸案ではあったもののせっぱ詰まってではありましたけど駐車場拡張工事という大事業を一気に成し遂げました。続いてこれも長年の構想だったベッド増床へ「今しかない」と踏み切るという、鍼灸院の大リニューアルを苦しい中で行っていました。詳細はこちらの記事で読めます

 その苦しい中の一年間で大きく変わったことは、「胃の気脉」をより意識するということでした。「何を今さら」といわれそうなのですけど、そうだったのです。
 学生時代に偶然に巡り会った研修会で比較脉診(脉差診)を用いての経絡治療をそれなりに手中にし、修業時代には「不問診をしてこい」と一言いわれたことから古典には記載のないだろう脉診を獲得できました。そして開業をして夢中の数年間を過ごしていると、ふと気付くと要穴への刺鍼数がやたら多くなっていて、「これは確かに経絡治療だが単なる凸凹治療じゃないのか?」と自問自答していた頃に漢方鍼医会創設の動きが出てきました。
 病理考察に加えて菽法脉診、これは衝撃的でした。今まで脉は平らにするもの・平均化させるものという意識で取り組み、それなりに難病というものにも成果をあげられていたのですけど、ここで「脉というものは鏡なんだ」ということに気付きました。つまり、正面から・右から・左から覗き込んだ時に鏡はそれぞれ別々の画像を見せてくれますけど、どれが正しいのかといえば全て正しいのです。見たいと思った方向から見ればその画像を鏡は戻してくれる、脉診も見たいと思った方向から指を当てればそのような脉診が成立しているのでしょう。そして脉診と経絡のバランスを合わせるような手法を工夫してしまうので、それぞれの流派の治療が成立している。では、できるだけ客観性が高い方法を求めるために腹診だけでなく、必ず肩上部の緩みも観察をしてよりよいものを求めようと決めたのです。
 しかし、今までのスタイルというものがありますし病理考察もうまく理解できないケースの方が多い過渡期は、癖もあって平均化させた脉を作ることで治療に携わるしかありませんでした。この頃には助手も入ってきていたので、助手の教育という面でも安定した方法を採らねばならないということもありました。

 漢方鍼医会の中でも取穴訓練の重要性や、まず軽擦をして使う経穴を決定していくなどのプロセスが確立してきました。加えて腹部を用いての臨床的手法修練という客観性の高い技術も根付いてきた頃から、やっと平均化させた脉という呪縛から解放されてきたように思われます。
 難経は片手ずつの脉診をしていた」という一言、歴史的に見ればその後の『脉型』が初めて両手同時に診察することを書いているのですから当たり前のことだったのですけど、完全な認識の間違いであり猛反省をしました。いかに古典を読んでいないかですね。
 もちろん片手ずつの脉診をすることもあったのですけど、最終的な診断は両手同時の結果としていましたから、捉えられる脉状の違いに驚きました。そして時々しか作ることのできなかった各脉位が菽法の高さに完全一致となる治療が、段々と当たり前になってきたのです。もちろん治療成績もベテランの域に入ってきているのに、ここへ来て後上をしてきました。
 菽法の高さへ完全一致の脉を目指していると、まだまだ理解には遠く使いこなせているなどとはおこがましいですが邪正論での治療が便利な場面も多くなり、大げさでなくても数脈の時に陽経から治療へ入ればうまくいくケースが多いということも分かってきました。幾種類ものバリエーションを使い分けられて素早く治療ができるようになっているのは、「胃の気がどれだけ出てきているか」に着目しているからです。

 「胃の気」「胃の気脉」については、説明がとても難しいですね。どのテキストを読んでも抽象的なことまでしか書かれておらず、古典にも記載に苦慮していることが伺える文面ばかりですね。しかし、我々の漢方医学の基礎の基礎です。生命エネルギーの根元を語ろうとするのですから、どんなイメージを持っているのかについて先に明らかにしておかねばならないはずですが、「名状し難きは胃の気の脈なり」とあるくらいで、誰にも具体的なことが提示できていません。
 漢方鍼医会の初期には、胃気や胃の気脉について延々と話し合っていた講演時間がありました。まだまだ脉差診から脱皮ができていなかったこともあり、中脉で診察するのだという話がされていたのを覚えていますし、そのように記載されている古典もあります。また「いい脉」=「触っていて気持ちのいい脉」という表現以上にしっくり来るものがなかったので、言葉遊びとは思っていませんでしたけど臨床へ直結する話には当時の私には聞こえなかったので安直に捉えてしまっていたのであり、深く追求していませんでした。
 ところが菽法の高さへ完全一致の脉が作れた時には、根底に共通しているものがあることに気付いてきます。病状によって五臓正脉にはどうしてもばらつきが出やすいのですが、菽法の高さを優先的に合わせるように心がけていると必ず根底にある脉状が分かってきました。それが「胃の気脉」でした。客観的事実から脉診の訓練をで見学者への説明に苦慮して腰痛患者の膝を曲げることをしたのですけど、身体が緩む=いい脉になる=変化の直後は胃の気が前面に出てきていることを、逆にこちらが教えられたのでありました。
 その後に本部研修部で講師をすることがあり、四年目になるのですがどんな脉がいい脉なのかを全く理解できていなかった会員へ同じ方法を試してみると、「初めて実際に脉の変化が分かった」と大感激されました。そして、すぐいい脉についても理解をされていました。また東京で学生向けのセミナーを開催した時も同じことをすると、「脉診というのは本当にあるものなんだ」という感想ばかりでした。
 それから昨年の夏に私の師匠が治療の見学をして頂いた際、背部の最後はローラー鍼と円鍼をして仕上げとするのですが仰臥位に戻ってもらった直後に「これは脉が浮いているな」との一言がありました。「えっ、それはおかしいぞ?」と確認へ行くと、一見浮いています。しかし、仰臥位で最後の散鍼をすると菽法の高さへ一致した脉状へすぐ戻ります。指摘された直後には「これは体位変換をしたので浮いているだけです」のようなことを口走ってしまいましたが、師匠を目の前に上がっていたんですね、円鍼によって胃の気が前面へ出てきている状態でした。少し浮いて緩んだような脉状が胃の気脉が前面に出てきた時のイメージだと、これが言葉で表せるギリギリのところです。

 『浮ならず沈ならず、疾ならず遅ならず、手に応ずること中和にして、意志欣欣、以て名状し難きは胃の気の脈なり』(診家正眼)が胃の気脉を表現した文面として一番有名ですけど、「何とも表現しがたい脉状である」と書かれているものをしっかり表現してやろうというところにそもそも無理があるのですが、一瞬であれば前へ出してこられることには確信を持ちました。腰痛患者さんの膝へ枕を入れた直後は腹部にも艶が出て肩上部も改善していますから、当然いい脉にもなっています。その時の脉は全てが中くらいに整った状態、あるいは背部に円鍼をして仰臥位になってもらった時の状態、それを指で覚えて根底に「あの脉状」があるように治療を奨めると、菽法の高さに完全一致となる治療ができやすいのです。また鍼の直後には完全に整わなくても、あの脉状があれば時間経過とともに整って来るという先読みの精度が向上しています。
 ただし、臨床における脉診のウェイトは非常に高いのですが、脉診だけで全てを語ろうなどとは思っていません。過度な依存は感覚を逆に鈍らせますし、不問診で得意げになっていて全く分からなくなってしまい凸凹治療に陥っていたのですから、他の診察法と合わせていつも「これで大丈夫か」と自問自答を繰り返しているのが私の臨床です。それでも脉診を中核とする鍼灸術をもっと大きく広めたいですし、後輩たちへも伝授していきたい。

 脉とは鏡なのですから、見る方向によって違う情報を戻してくれています。まず鏡を使うには光がないと見えない、これが胃の気に相当するでしょう。そして鏡を覗いていた時に、強い光が突然に差し込んできたならほとんどの方向でまぶしさを感じるはずです。このまぶしさを感じたものが、「胃の気脉」ではないかというのが私のイメージです。でも、まぶしさには慣れてきますしまぶしいだけでは鏡は使えないので工夫をしますから、脉診も自分が使えるように工夫をしていることと同じだといえます。なので他人とは完全に意見が一致せず最大公約数で研究を交換していることになります。
 まぶしさはあまり長続きしない・まぶしいだけでは使えないということが分かったので、いい光が取り込めている形での治療というものが工夫できるようになってきました。できれば最大公約数ではなく最小公倍数になるように研究を進めていきたいと願っています。