『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

追悼、渡部恵子先生

(この文章は、滋賀漢方鍼医会の月例会における朝の挨拶より書き起こしたものです)

 皆様おはようございます、平成28年2月21日ということで、今朝はまだ頭の中で整理をしながら話し始めています。滋賀漢方鍼医会の月例会を始めていきたいと思います。
 いきなりになりますが、個人的にお世話になった経験のある方・よくご存じの方・全く知らない方とそれぞれおられるのですが、漢方鍼医会の発足準備会というのを1月の寒いときに東京の高田馬場にあるヘレンケラー協会の三階にある講堂で行ったのですけど、そのときから参加されていた愛知の渡部恵子先生が昨日にご逝去されました。非常に偉大な先生であり、これから追悼の話をさせていただきたいと思います(黙祷)。
 数年前に脳出血を起こされて半身麻痺に既になられていたのですけど、そこからの回復はまぁまぁというところだったのですが癌が発病してしまいました。理事会では経過報告があったりお見舞いに出向かれた後の話などを聞いていて、残念ながら体重が減少をして30kgを切っているということでしたから覚悟をという話にはなっていました。でも、もう少し大丈夫ではないか3月まではという話だったのですけど、昨日の午前中から容態が急変して午後の2時過ぎにお亡くなりになったということです。私は仕事が終わってからiPhoneでメールチェックをしたならその一報が入っていて、覚悟はしていたこととはいいながらあまりに急なことでした。
 それで、渡部先生といえばご存じの先生はよくわかることなのですけど、漢方鍼医会の中では女性鍼灸師としての先達であり夏季研で指導を受けた女性会員の目標の先生にまず間違いなかったでしょう。

 私と渡部先生が最初に出会わせてもらったのは、先ほどの漢方鍼医会設立準備会でありヘレンケラー協会の講堂で初めて実物を目にさせてもらいました。それ以前からお名前はこちらはずっと知っていたのですけど、その当時の私はまだ二十八歳くらいでしたから遙か雲の上の先生だったわけです。多分その頃も私は態度がでかかったと思うのですけど、それでも私の名前を渡部先生の方が知っていてくれたなんてことは夢にも思っていませんでした。お父様である高橋清市先生の手を引いて来場されていたのですけど、高橋先生の方へご挨拶に伺わせていただいたなら「滋賀の二木さんですね、よく名前は知っていますよ」といわれて胸が躍ったことを昨日は一番に思い出しました。
 渡部先生のことを話そうとするとお父様である高橋清市先生のことから話さねばなりません。高橋清市先生は確か先天的な視覚障害者だったと思います。少なくとも幼少の頃には目が見えなかったという話です。愛知県の蒲郡市で開業をされていて、その治療室を渡部先生や高橋清吾先生が継承されているわけですけど、盲学校を卒業された頃には我々が言う刺激治療だったそうです。これをなんとか変えたい、按摩もされていたのですけどもっと患者さんのニーズに応えられる治療をしたいということで福島弘道先生が会長をされていて視覚障害者が学べる場ということで東洋はり医学会に出会われます。いつ頃から通い始めたなどの細かなことは忘れてしまったのですが、まだオープンリールのテープの時代に大きなデッキを担いで東京へ出向かれていたという話を聞いています。ここで勉強をして、段々と鍼灸専門へとなられたそうです。大変な勉強家であった高橋清市先生には何度も何度もお世話になりまして、そのことを思い出すと今でも涙が出そうになってきます。
 朝早くから電話がかかってくるのです。「二木さん、この間の本部で発表していた・質問していたことなんだけど私が調べたならこうだって・・・」と、この電話がかかってくるのが決まって7時過ぎなのです。もっと早い6時半くらいにかかってくることもありました。私が少し話したとか疑問を投げかけたくらいのことを帰宅してからわざわざ調べていただき、それで電話をいただけるというのですから本当に親父様でした。
 その親父様の勉強する姿をずっと見てこられた渡部先生だったのですけど、「勉強する姿を学ばれたのですか」と質問をしたことがあります。最初は「全然」といわれたので、どういうこっちゃと思いますよね。今のようにデイジーがあるとかテキストデータがあればパソコンを使って自力で読めるという時代ではなかったので、なんとしてでも勉強をしないと晴眼者へ追いつけ・追い越せとはならないので奥様に本を読んでもらわれていました。この奥様にも何度もお世話になっているのですけど、奥様も漢方の用語は試行錯誤で少しずつ読めるようにはなられたのですけど理論は半分も理解できなかったといわれていました。夜に治療室が終わってから本を読んでもらわれるのですけど、絵本を読んでもらったり遊んでほしい時代だったのに「やかましい」と叱られるのだそうです。「大切な本を聞く時間なんだからお前はおとなしくしていなさい」と、録音をされていたときに音を出したならたたかれたとも聞きました。だから母親が父親に本の朗読を始めたなら、じっとおとなしくしていたということでした。そういう環境の中で育たれたそうです。
 どういうきっかけで鍼灸師を選ばれたのかの話も聞いたかもしれないのですけど、高橋清吾先生の方は覚えているのですけど残念ながらこれは思い出せません。でも、高校は名古屋の学校へ電車通学をされていたという話は覚えていますし、たぶんですがそれほど回り道はせずに鍼灸師を選ばれていると思います。お父様を助けるためだったのでしょうか、今となってはみんなで思い出を語り合う場所でも作らなければわからないかと思います。

 「治療室へはいって私が一番に覚えていること」というのを聞きました。最初は清市先生のお手伝いで助手をされていたのでしょう、何年か経過してそろそろ一人で治療をしてもいいだろうということになったとき、患者さんから「恵子さんでもいいんだけどね」といわれたそうです。「恵子さんでもいいんだけどね」ということは、患者さんは大先生に治療をして欲しいのです。ここで闘争心に火がついたということを覚えています。東洋はり医学会には私より10年は早くに入会されていると思うのですけど、本部の方は私が通い始めたときには既に研究部で清市先生の手引きをしながらだったのでお会いしていません。
 高橋清市先生の話をもう少ししなければ漢方鍼医会の方へつながってこないのですけど、今は愛知漢方鍼医会ですが当時は東洋はり医学会愛知支部でした。この愛知支部がなぜ有名だったかというと、今私たちが臨床で使っている「生きて働いているツボ」の概念をまとめてくれたからです。高橋清市先生と渡部恵子先生に当時助手をされていた光森先生の三人で、「生きて働いているツボ」について本部で発表されました。それまでは沢田健の「今生きているツボと死んでいるツボがあるから、生きているツボをとらなければならない」という言葉は有名だったのですけど、井上恵理先生は「バス停のようなもの」と表現され、つまりバス停の前にバスは停車するのだが必ず同じ位置ではなく少しずつずれてしまうといわれました。あるいは犬小屋につながれている犬という表現もあり、犬小屋の中で休憩していることも多いですがつながれている範囲で犬は動き回りますという表現もされています。今生きて働いているツボのとらえ方について、一番最初にまとめてくれたのが高橋清市先生であり光り森先生であり、渡部先生だったわけです。
 確か「経絡大学治療講座」の第10回で、開業をして二年目でありフリッチョフ・カプラの講演会もあった東洋はり医学会30周年記念大会も兼ねていた合宿研修会へ参加をしました。この大会では参加者が多いので本部講師のみでは足りませんから地方組織の先生からも講師へ出てもらうということになり、高橋清市先生が「生きて働いているツボ」を担当され直接指導していただいたことに感激したことを鮮烈に覚えています。そのときに私が何かを発言していて、また東洋はり医学会の本部で発言したことから名前を覚えていていただいたのだと思います。それで先ほどのヘレンケラー協会の講堂でご挨拶に伺ったなら、渡部先生からも「知っていますよ」という返事につながってきています。

 では、なぜ今後は漢方鍼医会でなければならないのかという話へつながってこないので進めていきますけど、女性鍼灸師はたくさんいます。年齢がそこそこだという先生もたくさんおられますけど、ずっと第一線にたたれたままだったという先生はあまりおられません。お子さんも二人おられて孫の顔も見られているのですけど、実家が鍼灸院だったということで産後二ヶ月くらいで仕事復帰したと聞きました。嫁ぎ先から自動車で子供とやってきて奥に寝かせておき、そのときには実母が子守をしていて授乳が必要なときなどだけ少し抜けて面倒を見るという恵まれた形ではあったものの、ほとんど仕事を切らさずに来たといわれていました。環境というものは整備しなければならないけど、出産があっても仕事を続けること自体はそれほど難しいものではないとも発言されていました。
 私が個人的にすごくお世話になったのは、当時の漢方鍼医会は目黒で開催されていて実技班が一緒になることが多かったのです。「生きて働いているツボ」についてはもうその頃にはわかっていたのですけど、ツボの使い分けについて示唆をいただきました。池田先生の理論を参考に脾虚肝実証といえば太白に補法で光明に瀉法という感じで臨床はできるようになっていたのですがまだバリエーションがつけられない段階だった頃ですから、「先日に教えてもらったところから商丘と光明の組み合わせにしたとか商丘と陽輔にしてみた」とか、「陰陵泉は使いにくいね」「七十五難はうまくいったケースもあるけど難しいね」など親父様と同じで、一ヶ月間の臨床報告をしていただいて一緒に検討をしてくれるという先生だったのです。
 私の方も段々と講師の立場の方が多くなり実技班が一緒にならなくなったのですけど、結婚をして奥さんも何度か一緒に東京へ出かけていたのですがそのときには一番最初の子供である娘がお腹の中にいて、安産灸のことについて事細かく教えていただきました。その事細かいことについてはホームページ上に掲載してありますから読んでいただくとして、安産灸の数の決め方と増やし方についてはこのときに渡部先生から教えてもらったことを今でも実践しています。お産をしてから二週間で「床上げ」をするのですが、そのときに私は床上げという言葉を全く知りませんでした。床上げというのはまず布団を片付けて自分の身の回りのことから再会をするという意味で、そこから産後一ヶ月で元通りにしていくのだと教えてもらいました。産後の肥立ちについては、この日程を絶対に守りなさいとも教えていただきました。これが個人的には一番お世話になったことです。
 乳房マッサージについては、高橋清市先生が戦争中に宮内庁御用達の乳房マッサージをされる方が蒲郡疎開されてきていて頼み込んで教えてもらっったものを渡部先生が受け継がれていて、第18回夏季研名古屋大会で女性だけを集めて実技披露をしてもらっています。ちょうどうちの三番目がまだ授乳をしていたので、母乳が出るということからうちの奥さんをモデルに実技をされています。この大会では、婦人科や女性のことでの基調講義もされています。これは学会誌に残っていますので、読んでください。

 少し思い出すだけでもたくさんのことがあるのですけど、なぜ漢方鍼医会でなければならないのかという方向へ話は変わります。まだ「医道の日本」の一月号を聞いているのですけど、名刺交換会のところには漢方鍼医会も出ているのですがたくさんの研修会が出てきています。ここへ出てきているのは、まず間違いなく経絡治療関連の研修会です。見ていると「こんなにたくさんの研修会がなくてもいいのでは」と思ってしまいます。伝統鍼灸学会の感想で「多様性は宝だ」と気づいたのではありますけど、ちょっとこれでは多すぎるでしょうしこれから経絡治療を勉強したいと思っている人たちも迷って決められないでしょう。私が実際に所属させてもらったのは東洋はり医学会と漢方鍼医会だけですが、私の目からですが漢方鍼医会ほど治療成績の上がっているところは、それも集団でできているところはないだろうと思います。それから塾頭というのか、誰か一人の先生にくっついていくというやり方をしていないのも、漢方鍼医会だけだろうと思います。
 ですから、私も20年くらいすれば研修会というステージからおいとまをする日が来るのでしょうけど、それでも次の世代の人たちが確実に技術を伸ばしていってくれているのは漢方鍼医会しかないと思います。この20年間、滋賀だけでいえば30年間を突っ走ってきました。渡部先生のご意志もそうでしょうし、鍼灸術というものを継承し発展させていかねばなりません。
 朝から少し暗い話にはなりましたけど、これはこれとして今日の研修会には爆弾発言に近いものも持ってきています。一つ歴史が変わったということを、今は胸に納めていただければと思います。

創設時からのメンバーが少しずつ減ってきてしまっているのですけど、