『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

彦根城の秘密、屋形船の体験から

 2019年6月20日彦根市視覚障害者協会の今年度の第一回歩行訓練として、彦根城のお堀に浮かぶ屋形船に乗船してきました。
 「全盲が船に乗っているだけで面白いのか」といわれそうですけど、これが面白いんですね、だから出かけてきました。当日はほとんど風もない穏やかな天候だったので水の上で揺れている感じこそ全くしなかったものの、時々ですが水の音がしていて実感が最後にはありました。
 まぁいい年をした大人の遠足であり、視覚障害者の団体様ですからやかましいことこの上ないいつもの雰囲気はそのままでしたけどね。

 実は彦根市視覚障害者協会の役員を一ついただいているので、私の担当は歩行訓練でも半日だけの主に市内のどこかへ出かけようというタイプのものですから、昨年末に偶然家族で乗船していたので提案をしたものです。そして好評をいただいたので、同窓会のメーリングリストへ報告のような形で投稿をしましたから、加筆をしてブログの方にも掲載したというのが今回です。

 昭和の最後に「彦根城博物館」を建築したとき、資料の中から12枚の船の図が出てきて、その一つを再現したのが内堀に浮かぶ屋形船です。現代ですから駆動は電気モーターですけど、それ以外はかなり忠実に再現されているとのことです。大きさは細長くなった六畳間くらいで、詰めて座れば20人くらい一艘で乗船できそうで、観光シーズンを見据え合計四艘がありました。屋形船はお堀からそのまま琵琶湖へ出られるので、お殿様の遊びや客人の接待のリムジンだけでなく、琵琶湖の反対側へ幕府の役人を送り届けるなどにも活用されていたらしいです。
 天井が非常に低いので、四つん這いでないと中へ入れないというのが最初に受けていました。
 船頭さんのほかに自動アナウンスではなくガイドさんも乗り込まれて、会話形式で様々なことを説明してもらったり教えてもらったりの45分間でした。印象に残ったものを順不同で紹介していきます。

 彦根城関ヶ原の合戦以後、大坂夏の陣までに突貫工事で建築されたものなので、十数カ所の班から作業員が集められての工事がされ、それぞれに石垣の積み方が違いますから横に眺めていくと模様が所々変わっているとのことです。
 その中に真四角の石があるのですけど、これは石材が不足していたので元々お墓が多くあった彦根山(天守閣のある山のこと)ですからそのまま切り出してきたのが真四角のものです。でも、まだ気を遣っている方で安土城跡なら素人でもわかる墓石がそのまま石段に使われていて、中には戒名が読めるものまであるそうですから織田信長のおっかなさがわかるという話でした。

 突貫工事ということで、大津城の五階建てだった天守閣の上の三階部分までを移築してきたという話はよく知られています。ところが最近見つかった書状の中に、明智光秀坂本城を壊して大津城を作れという記載があるらしく、どこが出発点なのでしょうという話です。
 国宝となっているのは兵庫県の姫路城・長野県の松本城・愛知県の犬山城滋賀県彦根城の四つだったのですが、明治維新以後に天守閣が取り壊されていないのが理由だと聞いていたのですけど、このほかにも八つのお城が取り壊されずに現存しているというのは初めて知りました。そして島根県松江城が国宝に指定されました。

 それで彦根城は豊臣の大阪やちょうていの京都からは最初の東のお城となるので、大阪や京都へ向けて西側が正面ということになります。観光客が普通で入りして地元人でも正面だと思っていた正門は、戦がなくなった時代から後付けされた飾りのある玄関のようなもので、正面は大手門ということになり、後から話題に出てくる彦根市立にし中学校の近くにある西の端にあるあの端が正面玄関ということになるそうです。
 だから大手門からの賛同は攻め込みにくいようにあまり石段がなく、正門は石段で上り下りがしやすくなっているのだそうです。盲学校の春の遠足は必ず彦根城と決まっていて、遠足以外でも何度となく天守閣まで上っていますから私にとっては慣れた山道なのですけど、それでも上りやすいとはとてもいえないんですけどねぇ。

 お堀は築城から一度も掃除がされたことがなく、平均1.6mなのですけど水深は1.4mですから20cmの泥が江戸時代から積み重なってきたものということになります。大雨で水が増えても琵琶湖へ流せるので、水深は常に一定とのことです。
 船着き場はお城の側ではなく内堀の外側に一箇所あるのですけど、これは容易に敵が天守閣のある彦根山へ侵入できないようにという配慮です。江戸時代の後半になって物資の積み卸しのためだけに後から肝胃の船着き場は作られたのですけど、人が乗り降りできるのは玄宮園の近くにある今でも利用しているところのみです。屋形船再現のために、わざわざ作ったものではないそうです。
 お堀の幅は約60mあるのですけど、これは火縄銃で人間程度の的に当てようとするなら60mくらいが限界ということで、広いお堀を作っても敵を狙撃できなければ何にもならないということからの数値だそうです。何度も渡った橋は、60mくらいだと全く気づいていませんでしたね。ここから類推すると、ほとんどのお城の堀は60m以下の幅ということになるでしょう。
 彦根城には厩が現存しているのですが、これは非常に珍しいことで重要文化財に指定されています。江戸時代に最も情報を早く伝達する手段は馬を走らせて手紙を届けることであり、常時400頭も馬がいて乗り手は2000人もいたそうです。馬やと天守閣の間にお堀があるので、ここで乗り手と場内の役人が手紙を受け渡ししていたことになります。

 大手門の近くに彦根市立西中学校があるのですけど、ここは昭和37年に吉永小百合主演の「青い山脈」が7ヶ月間にわたって撮影されたところです。日活が撮影協力のお礼にとそのまま校舎を残してくれたそうで、60年近くも前の木造校舎が現存しています。というより、何か補修工事の音がしていました。
 ガイドさんの母親がちょうど中学に在学していたときらしく、吉永小百合が自転車で走るシーンは芹川の土手なのですが、そこを追い越していく中学生は西中学の生徒がエキストラでつとめていたものの、通学距離が短くて自転車がなく映画には移っていないそうです。けれど母親の友達という人が家に来たとき、「あそこに移っているのは私たちやで」と、何度も繰り返し聞いたそうです。
 彦根城からは少し外れますけど、珍しい芸能ネタも聞いたので書いておきます。タレントの中井貴一が高校生の時、琵琶湖国体のテニスへ出場するために米原駅で新幹線を降りてタクシーで彦根市内の「なかよし旅館」を運転手に告げたそうです。運転手は聞いたことがなかったのでとりあえず彦根市内まで走ってきて、無線で会社とやりとりするのですけどわからないまま二時間も走り回りました。道を歩いていた人にたまたま尋ねてみると、「中村よしおさんがやっている旅館やし、なかよし旅館」という超ローカルな呼び方だったそうです。未だに彦根城でのロケがあると、恨みに思っているのか枚開祖の話が出るそうです。ちゃんちゃん。

 お堀の白鳥は皇居のものが増えすぎたので四羽もらってきており、黒鳥は茨城県水戸市との友好関係から一羽もらったもので、合計五羽が優雅に泳いでいます。屋形船が通ると白鳥が近づいてくるのでサービス精神が教育されているのかと思ったなら、船頭さんがドッグフードをばらまいておびき寄せていたのでした。なんでドッグフード?

 ちなみに乗船時点での料金は一人1300円ですが、身体障害者手帳の提示で半額になります。介護人も半額。でも、お弁当と缶ビールはついてきません。
 宴会をしたいなら二時間半を25000円で貸し切れます。10人くらい集まれば、それほど高い金額ではないですね。酒と肴は自前で持ち込むことになります。トイレがないので、そこはどうするのだろう?

 ということで、地元に住んでいても(住んでいるから)体験したことのない屋形船の話でした。