『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

還暦宣言

 私が滋賀県立盲学校の学生だった頃、還暦で定年退職間近の教員は「おじいちゃん」「おばあちゃん」と映っていました。初老という風貌であり、小学生だとまさに祖父母の年齢ですから、仕方ない面はあります。ところがところが、その年齢に自分がなってしまうなんて!!
 でも、人生設計で還暦は燈台の役目でしたし、医療人として一番脂の乗る時代として目標にしてきたので、実は還暦を迎えられたのはうれしいのです。20代では初学者レベルなので発言することそのものがありませんし、30代では相手にされず、40代になってやっと発言チャンスをつかんでも鼻たれ扱いです。50代でようやく毛色が違うかもしれないと着目される程度で、一番発言権があり実績が認められ誰もがうなずいてくれるのが60代なのです。今からの10年間が鍼灸師として実績を残せる時間帯であり、同時に集大成の時間帯ですから、まずはこのブログエントリーで決意表明です。

 私は視覚障害者として生まれました。出産直後は両目とも焼き魚のような真っ白に近い状態だったということで、成語四日目で眼科で診察を受けたということですが、この時の結果については聞いていません。「この子は全盲として生きるしかないのかも」と落胆と罪悪感は、想像を絶したとのことです。しかし、眼球全体の白濁が徐々に解消をして光が見えていることが分かり、いつ頃から京大病院を受診し始めたのかも聞いていませんが、先天性緑内障の状態が重く七か月目に最初の手術を受けているようです。手術後に目を覆う金属がかゆいので取ろうとしてしまいますから、赤ん坊に言い聞かせられるはずもないので手とベッドを紐で結びつけるしかなかったという話は何度も聞きました。
 一歳半までは左目のほうがきれいだったものがまたもや白濁してきてしまい、「やっぱりだめか」と両親は落胆していると右目の白濁が取れてきて、物心ついたころは右の片目だけが見えるのが世界の常識と思い込んでいる幼児になっていました。ただ、家族とは見えているものが違うことを徐々に感じ始め、地域の幼稚園へ通うようになると埋められない寂しさが重なっていきました。小学校入学からは盲学校で、同じくらいの見え方の世界になったことを喜んだものです。

 鍼灸の資格を取得する専攻科理療科まで時間は飛びます。中学の終わりから高校生は京大病院に入院までしたのに原因不明の眼球の強烈な痛みに悩まされ続け、「自分で何とかするしかない」と号鍼が刺鍼できるようになると、自己治療の真似ごとにすぐ取り掛かりました。おかげで号鍼の扱いに慣れて、スピードはもっと速いクラスメートがいましたが刺鍼技術だけならあれこれできるようになりました。2年生の外来ではノーシン中毒のおじいさんの腹部へ刺鍼したなら胃へ命中して、「こんなにすっきりしたことはないからあの兄ちゃんを専属にしてほしい」と教員に頼み込んでいたというエピソードもあります(その後にこのおじいさんを担当することも胃へ命中すること二度とありませんでしたが)。
 ところが、期末試験中のどさくさにインフルエンザを自己治療もどきで即座に回復できた体験が、鍼は深さではないことに頭を殴られた感じがしました。そして卒業直前の先輩から初めて東洋はり医学会方式の経絡治療を受けた時、体調変化にも驚きましたが脈が本当に変化する経験が、その後の人生を決定づけました。脈をどのように評価するなど全くわからないものの、一本ごとにリアルタイムに状態変化が読み取れること、人生をこの技術に投資しようとすぐ決心しました。
 3年生になると宮脇先生の治療室見学、近畿青年洋上大学でクソ度胸のついた野戦病院のような状況を経て、丸尾先生に引き合わせてもらいこれまた強烈な助手修行となっていきます。この時期の話については滋賀漢方鍼医会公式テキストにいくつか収録させてもらいましたが、いろいろと別で書いているので若いこれから鍼灸の世界へ飛び込もうとしている方々には、ぜひとも読んでいただきたい体験ばかりです。

 卒業して丸二年で開業となり、いきなり治療室を建築しての本当の仕事が始まりました。「経絡治療というめったに対抗馬のいない技術だから」と自分を奮い立たせながらでしたが、20代前半の若造に大きな治療室と駐車場はプレッシャーでした。令和の現代ならリスク回避のため彦根でもテナントから徐々に治療室を移転拡充するでしょうが、これは時代ですね。その分だけリフォームで苦心もしました。
 調子に乗ってきては壁に当たることを繰り返すのは技術の世界では当たり前のことで、陰経は相克調整を行い陽経からの軽い瀉法で症状回復はできるものの、「これは経絡の凸凹調整であって経絡治療とは言えないのでは?」という疑問を抱くようになり、ちょうど漢方鍼医会の発足に出会うことになりました。今でこそ中医学により当たり前に語られている漢方病理ですが、比較脈診を中核に行う証決定では客観性はお世辞にも高いとは言えず、30年前は経絡治療のターニングポイントだったと今では思えます。漢方病理と菽法脈診を中核にした客観性の高い経絡を積極的に活用した治療法、鍼灸師としての使命を直感しました。
 その後に漢方はり治療を確立できるまではエキサイティングだったり嫌気がさしたり、衝突したり技術革新があったりで、決して順風満帆な研究活動ではありませんでした。脈を菽法の高さへ全て納めることがベストの治療法であると結論付けられるまでには紆余曲折あり、途中に「腹診点方式」という実用的ながら証決定までのプロセスを飛ばしてしまえることで拒絶をされた診断法や、脈状を意図的に作り出そうという試みなど失敗例もいくつもありました。しかし、還暦までの集大成として滋賀漢方鍼医会公式テキストの執筆担当をするまでにこぎつけられました。

 私の技術の中で一番大きな変化をしたことは、ていしんのみによる全く刺鍼をしない治療になったことです。開業から10数年は、それしか頭にないので号鍼を用いていましたが、鍼先を砥石で研ぐ技術を習っていたので夜中に作業が必要なものの、痛みを訴えられることはほぼない状況ではありました。ただ、衛気の補法と営気の補法で本治法が組み立てられる分、手法が明瞭に区別できなければならないのに、思ったように経絡の操作ができていないと感じることがしばしばありました。
 疑問ではなく確実さに揺らいでいたころ、結論は毎晩肉離れを再発させていたのでしたが背部が激痛の高校生の治療に遭遇しました。治療後は痛みが消失するのにあくる朝には激痛であり、毎日繰り返すので万策尽きた感じで「これは深く刺鍼する以外にないのかも」と治療家としての気持ちが追い詰められました。「まだ手はないのか」とベッドサイドから離れて深呼吸していたなら、「ひょっとして浅い鍼を心がけているといいながら思わず力が入って皮毛の深さを突き破っているのでは?」と直感がしました。「それなら絶対に刺さらないていしんでやってみよう」と開き直って試みると、むしろ前日までよりも速攻があります。ていしんは小児鍼で活用してきましたし、一部の過敏な患者へ用いることもあったので号鍼より治療力が低いとは考えていませんでしたが、まさか号鍼が痛みを発生するかもしれない以外にこんな弊害もあるとは。この治療が終わってからしばらく放心状態でした。
 この経験から、まずは標治法で号鍼かていしんのどちらが適しているかを調べていくと、ていしんの適応のほうがはるかに多かったことがわかってきました。ていしんで施術しているのに腰椎ヘルニアがリアルタイムで回復した時、「鍼は刺鍼ではなく狙った深さへアプローチできるかなんだ」と、またまた衝撃でした。
 臨床追試していくとていしんは皮毛を突き破らないために用いたので、衛気の操作が得意であり、思考をひっくり返せば号鍼は血脈の深さが操作しやすいと言えます。営気の適応は少数なので、ていしんと号鍼の比率の差に表れてきているといえます。「それじゃ号鍼が適合している血脈の深さをていしんでも動かせないだろうか」と工夫していくと、少し意識して力を入れるだけで可能であることはすぐ判明し、「これなら手法の違いが明瞭に出せるので本治法へ応用すべき」と自然になります。高校生の治療から二か月足らずで、ていしんのみの治療へと切り替わりました。なお、誤解がないように書き添えておきますが、号鍼で衛気と営気の使い分けは十分に可能ですが、滋賀漢方鍼医会公式テキストで詳細に比較をした通り、ていしんのメリットの大きさからためらいなく治療全体を切り替えています。
 しかも森本先生の「森本式ていしん」が存在することをうっかり本部で漏らされ、すぐ入手して臨床のほとんどを森本式ていしんにも切り替えました。さらに自分の手に合わせたものが欲しくなり、二木式ていしんを製作することにつながっていきます。二木式ていしんを一つ製作すると、本治法用と標治法用の二つに分けることになり、バット型を作りたくて試行錯誤したものの重量的に無理だったところが副産物で邪専用ていしんが誕生していたというのは、何とも奇妙なめぐりあわせでもあります。

 アプローチすべき「深さ」に話を進めます。衛気と営気はていしんで操作が明瞭になりました。瀉法鍼は強引に血を動かせる用具だとかなり早い段階で発見していましたが、骨折の治療が簡便に行えているので深さとしては骨です。
 ローラー鍼と円鍼は最初は小児鍼から導入していますが、を主に背部の仕上げに用いるようになったのもかなり早い段階からです。号鍼を用いていた時代に置鍼は便利な反面で煩雑な扱いになるので、背部全体をまんべんなく動かせる代替法はないのかと試したところの産物です。完全なオリジナルではなく、円鍼の持ち方と施す「分肉の間」の位置については東京の先生からの知識ながら、本家の方が忘れているという変な話(自然体についても教えてもらった大阪の先生たちが忘れてしまっている変な話)。「分肉の間」へローラー鍼も当てはめてみればどうなるだろうということで、順番も含めて臨床投入できるようになりました。見た目の派手さが「気を飛ばしてしまう」と頭で考えて拒否する人が滋賀以外では多く、肌肉の深さを効率的に流せているのにもったいないことです。
 「奇経治療を再考すべし」と本部学術部の指令から、「どうせならていしんで試みよう」と治療へ入る前に、伝統鍼灸学会の大会中に業者展示を回っていた中で直感から二木式奇経鍼が先に完成しています、考えれば変な話です。直径4mmの太さから「押し流す処置」が成立し、その延長で「押し流す奇経治療」も成立してきました。この「押し流す処置」は筋の深さそのものであり、いわゆる刺激治療で号鍼が一番狙っているだろう深さを安全で的確に処置できるという皮肉なことにもなっています。
 用具を持ち帰ることで、皮毛・血脈・肌肉・筋・骨の五つの深さを明瞭に区別しながらの治療が可能になりました。古典に記載されている「ていしん」は先端が丸みを帯びていて刺さらない構造であり、皮毛と血脈を操作するもので表面をへこましてはいけないと書かれてありますから、本治法に適しています。そして標治法にも応用できるので「ていしん治療」と名乗るようになりました。ただ、治療とは臨機応変でなければならず、浅いものは浅く深いものは深くであり、時代の中から新たに開発された用具を治療体系へ組み込むことで古典の恩恵をより広げたいと考え実践してきました。これが臨床家としての今後の活動目標でもあります。

 時間の流れだけは大富豪であってもすべて平等であり、自分では「おじいちゃんになった?」と実感がありません。実際に衣食住すべてが改善したので見た目だけでなく身体も以前とは違うのであり、労働力人口の減少と年金不足から還暦での定年退職などとっくの昔に書き換えられており、私の子供は三人ともまだ学生ですから隠居などもっての外です。
 そこで学術面を含めての治療家としての今後ですが、日本伝統鍼灸学会の理事として活動するなど夢にも思っていなかったことが現在進行形になっています。「視覚障碍者支援委員会」という小さな委員会ながら、日本の鍼灸の歴史を支えてきた視覚障碍者としての立場を今一度明らかにして、鍼灸専門は視覚障碍者の適職であることをマスコミベースで広げていくことです。そのためには自分以外の研修会でも実力ある視覚障碍者鍼灸師の育成が必須であり、連絡会議で実技交流に加えて初心者講習を併設して門戸を広げ、実現できた視覚障碍者参加優先枠のある実技セッションを成功させて常設にしていくことです。
 開業鍼灸師としては世間からは成功者として見られる立場といえますが、治療技術はまだまだ手が届いていない段階が多いですし、鍼灸師鍼灸の社会的な立場は知名度の低さもあって恵まれていないので、西洋医学で救われていないむしろ犠牲になっている患者さんたちのためにも、積み上げてきた技術を広く医療の常識を変えるくらいにアピールしていきます。最後は選挙の演説みたいになってしまいましたが、今まで身の丈に合った活動からここまで来ているので、決して大ぶろしきを広げているだけではないことを宣言です。