『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

岡山県鍼灸師会の学術研修会へお招き頂きました

視覚障害者の参加者へ手技を伝授してい

 今回は2011年9月25日に、岡山県鍼灸師会の学術研修会へお招きいただけましたので、助手を一人連れて参加してきたのでその報告です。

 どうして岡山県だったかですが、これは「鍼灸ジャーナル」からの取材を受けましたで紹介しているように鍼灸ジャーナリストの松田博公先生との対談記事がきっかけでした。「ていしん」の効果を実際に見てみたい、どのような実技なのかを体験したいということですから、私でよければということで半年前に電話をいただき即決をしました。
 あまり話だけではおもしろくないので実技中心で進めたいと最初から計画はしたのですけど、ここで問題というか普段の漢方鍼医会もしくは伝統鍼灸関連の研修会とは違う状況があることは分かっていました。それは経絡治療に必ずしも理解がある・取り組みたいという参加者ばかりではないということ、悪く書けば「ていしんの嘘っぱちを見抜いてやろう」とする参加者がいるかも知れません。そこで個人的には合理的に技術を絞り込んできたのでデメリットがどこかにあるなどとは全く感じていないのですけど、敢えて「ていしんのメリットとデメリット」というものを書きだして最初に話をしました。

・メリット
 痛みが発生しない、衛生的である、コストパフォーマンスがよい、珍しがられる、オリジナルデザインのものが作れる、毫鍼よりも手技がダイレクトに反映してくるなど。
・デメリット
 置鍼や通電ができない、手応えがないと訴えられる患者さんがいる、経絡治療でないと効果が持続しない、ドーゼ過多に気付きにくいなど。


 このうちメリットの項目に入れてわざとその場で訂正したのですけど、「毫鍼よりも効果がダイレクトに反映されてくる」というのは使いこなせるようになってきた時の唯一のデメリットでしょうね。お灸の補瀉については古典文献にも絶対的なことは見あたらず、「熱い透熱灸は瀉法になる」「暖かい程度のお灸は補法になる」「途中で取ってしまうと熱が奪われるので瀉法になる」「棒灸はあぶる時間で補瀉が変化する」などと語られてはいるものの結局はどちらだかがハッキリせずファジーに身体の方が受け止めてくれるというのが共通認識です。鍼灸というのは元々ファジーな技術なのであり、鍼については毫鍼の影響力もかなりファジーだと認識しています。そうでなければ、誰もが経験していることでしょうけど学校へ入ってた人へ刺鍼できる程度の練習が出来た頃に「あんたで構わんからここへ刺してくれ」といわれて興味本位も手伝って刺鍼したなら、その症状が改善してしまったというのは毫鍼のファジーな面がうまく働いてくれたからです。
 しかし、「ていしん」はあまりファジーではありません。材質が堅いので形状が変化しない分、そして接触面の圧力操作が微妙である分だけよい方にも悪い方にも効果がダイレクトとなってしまいます。いや、施術中にも何度も体表観察は繰り返すことになっていますし通常は重点となる箇所へ何度もアプローチをするので、研修会へ参加して実技を先輩から学んでいたなら悪い効果を上塗りするようなことを教わりはしませんから臨床上はデメリットではないのですけどね。

 さて一通りの話を終えて実技へと入ったのですが、前述のように参加者全員が経絡治療を実践する立場ではありません。そこで少しでも興味と取り組むきっかけを、あるいは他の研修会で実践されている先生には菽法脉診により脉診を語る基準点の統一をということで、まずは脉診における指の当て方を行いました。特に三菽の皮膚上をスライドさせただけの重たさについては一様に驚嘆の声でありながらも、すぐには実践できないので嘆息が。しかし、少しでも脉診をしている先生には「脉の幅はこんなにある」ことが伝わったでしょうし、脉診をしているといいながらも自分の感覚で勝手にその情報領域の半分を捨ててしまっていることは分かっていただけたと思います。
 続いて腹部へ衛気と営気の手法をこちら側から行いました。これは普段の研修会で臨床的手法修練法として行っているものであり、腹部の弾力や肩上部の状態変化は大きく客観的であり、「ていしん」一本による効果は認めてもらえたと思います。へその形の変化や体毛が立ったり寝たりなどどうしても派手な面に注目されてしまうのですが、本当はここで脉診もして欲しかったのではありますけど。

 休憩を挟んで、今度は参加者に手の作り方を大ざっぱではありますけど伝えて、横にはくっついていましたけど参加者同士で腹部へ手法を行ってもらいました。ここでも、確かに「ていしん」で全身へ効果が広がることは確認してもらえました。けれど、ここからが普段の研修会や治療室へ見学があった時とは違う反応となってきます。「漢方鍼医会へ入会を前提にしている」「経絡を中心とした治療に憧れている」のではなく、「明日の飯の種がどこかにないか」という目の方が先ですから悪影響が出てくることにガッカリされるのです。「例えそれが悪影響であったとしても大きな一歩であり研修すれば好結果を刺さない鍼で実現できる第一歩だと考えてください」とは繰り返すのですけど、これはどこまで参加者の心へ響いたか手応えが分かりません。
 それならばということで、明日の飯の種に基本的な自然体についてを行いました。気というものを日本人はよく感じている、そして患者さんというのは気が衰えた存在ではなくまだまだ沢山の気を持っているのだが「病気」といううまく働いていない気になっているのである。だから施術者は楽な気を贈ってあげないと病気から回復しないのであり、そのためには自然体が必須条件であると説明しました。そしてお馴染みの方法で基本的な自然体を体験してもらいました。

 最後にモデル治療を行ったのですけど、ここが今回一番の反省点でした。できる限り治療室そのままを再現しようということでスピードもそのままに再現したのですが、これが漢方鍼医会の聴講班の実技であれば「そのようなスピードで並行しての治療が可能になりたい」と素直に受け止めてもらえるのですけど、ていしんは分かったが本当に治療が成立するのかという参加者には完全なスピード違反でした。
 一応ですが証決定した経絡を軽擦して脉状や腹診やその他の全身が変化することを観察してもらい、腹部への施術よりもずっと変化が大きいことも説明はしたのですけど、現在の私の臨床では本治法は一本か二本で三本目はほとんどしないことから、経絡治療をされている参加者にもスピード違反になっていたようです。それから背中などへの散鍼も、鍼管を使った毫鍼を基準に考えるなら絶対にあり得ないスピードですから、「ちょっとこれは・・・」という目線になってしまった参加者の方が多くなってしまったように感じました。最後に質問会が設定されていたのですけど、特定の手しか上がってこなかったというのが証拠でしたね。

 しかし、閉会後に熱心に質問してくる学生さんがおられましたし研修会がどのようにすれば参加できるのかという質問もありました。また欧米での鍼灸に関する研究が鍼をある程度刺すことが前提となっていて切皮や鍼管で叩き込んだ程度のものをプラシーボ(にせ鍼)とされていることに疑問と怒りを感じておられる方もおられて、先日の滋賀漢方鍼医会で教員養成過程の学生から「ていしんで卒論が書きたい」との相談からその場で考案した方法のことを説明したりしていました。ひょっとして「にせ鍼」と「ていしん」では明らかに違うことが、「ていしんは気を伝える道具」だということが証明できたなら世界中に衝撃が走るのですけどね。
 様々な意味で、今回も勉強をさせて頂きました。お招き頂きました岡山県鍼灸師会の先生方には改めて感謝を申し上げるとともに、鍼灸の発展のために尽くせることがあれば積極的に取り組んでいきたいと願っています。なお、写真は視覚渉外のある参加者へ手技の指導をしている場面です。