『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

矛盾をしているから病態、リンゴとバナナの例え話

 前回のエントリー滋賀漢方鍼医会三十周年、特別セミナーの報告では、全体概要と開催までの課題や今後の鍼灸業界のことについて、特に現在の鍼灸学校学生へは苦言を書きました。

 私は経絡を積極的に運用するのが本来の鍼灸の姿であることを、「鍼は元々刺すことが目的ではなかった?霊枢『九鍼十二原篇』から - 経絡治療の歴史を解説」というタイトルで基調講義の前の特別講義という枠で話をさせてもらいました。
 全文は既にホームページ上で公開したのですけど、この講義の締めくくりのために考えた例え話が当日は時間切れで十分に話すことができなかったため、ブログ上で先行公開したのが今回のエントリーです。この例え話はホームページ上の文章にほぼ取り込んでいますが、例え話だけを抽出して読んでいただく価値も十分にあると考えるのでそのままエントリーを残してあります。


 例え話は、ここから始まります。
 設問には、以下のことが書かれていました。『Aさんはリンゴを四つ、B君もリンゴを四つ持っていました、C君はバナナを六つ持っています、これらを子供五人で分けるにはどうすればいいでしょうか?』。
 子供は五人なのですからリンゴは合計で八つとバナナも六つあるので、通常ならまずは五人の子供へ一つずつ配って、その後に残ったリンゴ三つとバナナ一つをどうしようかと考えるでしょう。しかし、単純に追加配布をしていると一人だけもらえる数の少ない子供が出てしまいますから、これは困ったものです。
 どのようにして配布すればいいかを話し合いますか?欲張りな子供がいれば話し合いそのものが行えないかもしれませんし、話し合わずにくじ引きにしようとなるかもしれません。希望者から先着順で追加配布をしますか?でも、なかなか手の上げられない子供がいるかもしれませんし、欲張りが「おまえは手を上げるな」とプレッシャーをかけるかもしれません。けんかになるので追加配布をしないという手もあるでしょうが、その場は問題解決はできてもリンゴ三つとバナナ一つの最終処分はやはり考えねばなりません。
 あるいは、一人だけものすごく小さな子供がいてリンゴにはかじりつけないがバナナならすぐ食べられるので、バナナ二つを最初に配布してしまうと、残りの大きな子供にはリンゴが二つとバナナ一つずつできれいに配布ができます。いや、小さな子供はその場で食べたがってしまいますが親に見せてから食べるべきであり、兄弟の大きな方に二人分をまずは預けるかもしれません。
 実はリンゴの大きさがばらばらで、小さなリンゴ二つで大きなリンゴ一つと同じカウントにしようということがあるかもしれません。その前に、配布をしてくれる大人がいるのかいないのか、大きな子供が仕切って配布を考えているのか、まだまだ状況がいろいろと考えられます。設問は『Aさんはリンゴを四つ、B君もリンゴを四つ持っていました、C君はバナナを六つ持っています、これらを子供五人で分けるにはどうすればいいでしょうか?』。としかないので、大人の存在も子供の大きさもリンゴやバナナの状態も、何も定義がないところから矛盾を解消するためのことを考えねばならない問題だったのです。

 病気というものは身体に矛盾が生じているので発生してくる現象であり、治療というジャッジメントできれいに解消することもあるでしょうが、なかなか矛盾の解消に至らないこともあります。
 先ほどのリンゴとバナナの設問でいえば、子供同士で割り切ることを考えて矛盾を解消していくのが自然治癒力に当たるでしょう。いつも最終的には自分たちで決めていかねばならないのであり、決める力を蓄積することで成長をしていきます。病気でいえば健康の維持・管理するところから、増進というレベルへ踏み出していく行為に相当するでしょう。でも、少し問題が難しくなると大人の助けが必要となり、これが治療に相当します。すぐ解決できる単純な矛盾なら子供だけに任せておけばいいのですけど、矛盾というものは簡単には解消されないので一緒に考える立場の大人が必要であり、それが治療家の立場ですから上から目線ではいけませんけど常に全体を見通す冷静な広い心で取り組まねばなりません。そして最終的には自然治癒力が必要であり、治療とは自然治癒力の手助けをしているものなのです。
 そして治療家の側が覚えておかねばならないことは、矛盾を解消するための解を探るのですけど完全な解をその場で得ることはできないということです。リンゴとバナナの話に戻りますけど、様々な状況を考慮して納得の上で最善だろうと思われる分け方をするのですけど、次に出会ったときに「あの分け方で正解だったね」と会わををしているように、正解というものはある程度の時間が経過しないと判断できないものなのです。それも自分一人では判断できないこともあります。ですから、正解になるはずというものを探るのですけど、あらゆる化膿性とその結果を妥協せず考えて決断していかねばならないのです。
 その「この場で最善と思われる解」を求めるためのツールが、証決定だと思うのです。経絡的な治療を否定する人からは、「たった五つの証決定で病気の治療が全て可能になるなんてその方が矛盾だ」と言われるでしょうけど、考え方やアプローチの間口をまず五つに分けるだけであり、その奥へ進むとまた五つのカテゴリーとして選択肢を整理しているのであり、さらに奥へまた次の段階へと分けて考えていっていますから、証決定による治療は完全なオーダーメイドです。ただ、オーダーメイドの治療であるためには技術習得に時間と経験が必要であり、腕を錆び付かせないための努力を継続しなければなりません。
 同じ経穴へ同じような手法をしているように見えていても、一度きりのオーダーメイドで技術は行われていますが、それ故の危険性もあります。それは「思い込み」という落とし穴です。「この病気はこのようになっているはず」と思い込んでしまうと、証決定には様々な段階があり誤診を防ぐための複数での確認が用意されているのですけど、それらを無視して結論ありきになってしまいます。こうなると解を求めているのではなく、解釈を押しつけてしまうことになります。
 ですから「治療の段階はまだ仮説であり、正解というものは治療が終了したときに初めて証明されるもの」という原則を忘れないことです。西洋医学をベースに治療を組み立てているなら毎回刺鍼する部位に工夫はしていたとしても、それは解を求めているのではなく部分的な矛盾を解放しているだけで治癒に導けるケースはラッキーのなにものでもありませんから、鍼灸で治療をしていこうとするなら証決定という行為は必須なのです。
 病気というものは矛盾が発生させたものなのですから、矛盾を解消させるには少し強引な面があっても仕方ありません。そういう意味で証決定は多少強引な面もありますけど無駄なく効率的にカテゴリー分類を奨めるには陰陽論や五行論というものを信じて自らのものへとしていくことです。そうすれば“ていしん”という全く刺さない鍼しか使っていないのですけど、治療に何ら不自由を感じることなく毎日の臨床がこなせるようになってきます。
 決して毫鍼のことを否定していませんが、古典を読めば鍼は元々刺すことが目的ではなかったことが読み取れるのですから“ていしん”による治療は、頼子展に忠実な治療法だといえます。