『にき鍼灸院』院長ブログ

不定期ですが、辛口に主に鍼灸関連の話題を投稿しています。視覚障害者の院長だからこその意見もあります。

夏期研修の思い出あれこれ

 週末には第15回漢方鍼医会夏期学術研修会 滋賀大会の二回目の講師合宿が行われ、研修マニュアルに沿ってリハーサルが行われ微調整を終えると準備の80%は完了することになります。
 、地方組織も夏期学術研修会の主催を分担する約束には確かになっていますが、空港も新幹線の主要駅も持たない地方らしい地方での開催は初めてですから昨年度の閉会式では「来年は僻地での開催になりますから」と皮肉も言われたくらいで、「本部はほんまに地方の苦労をわかっとんのかい!」と怒鳴りたいような場面もいくつかありましたので準備に突っ走ってきましたから一人になった時には思わずこの二年間を振り返ってしまいます。
 しかし、大会終了までまだまだ気は抜けませんけどね。

 それで最近はこの二年間のことも思い出しているのですが、私が参加させてもらった夏期研修のことをいくつも思い出しています。
 初めての夏期研修は、これは学生だったということで実は参加の声を掛けてもらえなかった大会なのですが、東洋はり医学会の第九回経絡大が初めての出会いでした。
 まだ発足したばかりの滋賀の研修会でしたから、ほとんど毎月大阪から指導には来てもらっていたものの全国レベルの大会へは初めての参加であり、先輩方の興奮は二週間経過していても全く覚めておらず、当時はメールも携帯電話もないのに帰宅後にも情報交換をされていたようで次の月例会での復讐では様々なことを伝えてもらいました。
 この大会の様子は助手に入らせてもらってから録音でさらに詳しく聞いたのですけど、衝撃的だったシンポジウム「営業繁栄の秘訣」については忘れてはならぬ「かきくけこ」で紹介しています。

 次は三年後で、地方組織でのセミナーという形では合宿研修に参加したことがあり本部からの講師派遣で二日間の集中研修も経験しているのですが、全国から一同に参集しての合宿研修は初めてでしたからワクワクドキドキです。
 まずは開業から四ヶ月経過したところであり、開業から二ヶ月後に初めて夜行列車で東京へ向かった時に「あぁこんな自分なのに患者さんが力を与えてくれていることに感謝しなければ」と涙を流しながら乗り込んでいたのと同じくらい、新幹線のホームに立った時に自然と涙が流れてきたことをまず思い出します。
 そして東洋はり医学会の三十周年記念大会であって、理論物理学者のフリッチョフ・カプラについて事前情報は与えられていたものの著書はまだ読んでおらず、講演に感動してその後にニューサイエンスと呼称される分野の本を自費で録音してもらってまで読みまくり、トランスパーソナル心理学を実践するまでになりました。
 そして後半の研修会では、勉強を始めて三年になりますし開業もどうにかなりそうなので「突撃!」という感じで腕試しに挑んだのですが、結果は見事な玉砕。今でもお名前をハッキリ覚えているのですが、北九州支部のM先生に「少しできるようになったからと基礎をおろそかにしては絶対にいけない、『私の場合には』『自分流では』と聞くが、基礎の上に工夫を乗せているのならそれは地域性ということでいいのだが基礎を踏み外しての我流は絶対にいけない」と強く指導されました。

 M先生の強い指導を胸に二年後の経絡大では、「私の場合には」「自分流では」という先輩方の言葉を聞きながらその実技を見させてもらうと今だから書けることですけどお粗末というものがほとんどで、強く指導してもらったことに改めて感謝をしました。まずは基礎修練であり、その上での工夫でなければなりません。
 次の二年後の経絡大では前回から始まった地方支部からの講師指導が受けられるクラスとなり、その後もずっとお世話になることになった愛知の高橋清市先生に「生きて働いているツボ」についての実技を受けられたことが印象的であり、高知の塩見先生に気の練り方を教えて頂いたことも感動的でした。

 その後も地方組織の関係から東洋はり医学会の全国行事には何度か参加したのですけど、漢方鍼医会創設と同時に毎年開催されている夏季学術研修会は時間的に二泊三日から一泊二日へと短くなったものの、講義の録音が行き渡るといっても二年に一度では浦島太郎の気分になることも多く毎年合宿を行うところにまず大きな意義があります。鍼灸師は手が動かなければ話にならないのですから、「実技をやってなんぼ」のものであり、昼の講義や実技だけでなく夜に聞かせてもらえる話に宝が沢山隠されていますから「参加してなんぼ」と表現した方がいいでしょうか?
 それで記念すべき第一回の夏期学術研修会ですが、菽法脉診の脉位を指で覚えることに一時間以上も掛けて全員で取り組んだことが印象的でした。脉状を診ているとはいいながらもそれまでは総按での浮沈・遅数・虚実のみであり、治療によって中位へ落ち着かせることに変わりはないもののそれぞれの菽法の位置へも落ち着かせられているかということは私にとって衝撃的なことでした。それからこの夏期研直前に難経七十五難型の治療法を発見し、座談会の中で初めてそのような取り組みをしていることを話したこともよく覚えています。
 それからそれから古すの西熱海ホテルへ戻ってきたのですけど、大混雑の状況しか知らなかったものですからゆっくりお風呂に入れたことも感動的でしたが暖かく柔らかな唐揚げが食べられたことにも感動していたという変な奴です。

 ここからは毎年のことなので印象的だったことだけピックアップしますけど、第四回で初めて地方組織主催による大阪大会が開催され、症例発表に出演しています。この年から助手を入れていたので出かけるのが非常に楽になりましたし帰りには鶴橋で焼き肉を食べていたりもしました。第五回は直前に末期の大腸癌患者が治療室から救急車で搬送しなければならないという事件があり、さらに明くる日にお見舞いをした直後に飛び降り自殺をされてしまったという心の傷があって、疲れまくっていたことだけ覚えています。しかし、夏期研に参加したからこそ立ち直りが早かったのは間違いありません。
 第七回では衛気・営気の手法が導入されました。またシンポジストとなったのですが、約束より二週間も早く原稿提出が求められたのに他の出演者はまだ徹夜で原稿治しをするとのことですから、懇親会後に打ち合わせがあるのでアルコール禁止令が出ていたのにバッチリ飲んで自分の分だけ伝えたなら大いびきで眠ってしまったという逸話というのかふざけた話というのかを残しています。第八回では体表観察が導入され、この年から私は講師側に加えて頂きました。
 第十回は漢方鍼医会十周年記念事業との抱き合わせで開催され、記念出版の一つである「用語集」の責任者として本を共同執筆し会員全員へ配布されたのでありました。テキストの補助療法の執筆も担当しました。それから紆余曲折があって滋賀漢方鍼医会の正式発足はこの年であり、大勢での参加が嬉しかったことも覚えています。また講師謝礼の代わりにといただいたグレートジャーニーの写真パネルは、今でも待合室に飾られています。
 第十一回では漢方腹診が導入され、滋賀からもシンポジストを送り出すということで半年前から研修会の数を増やし陽経腹診をまとめて発表しています。
 第十三回の時に「次は滋賀の番だ」という指名があり、いつかは担当しなければならないことなのでソフトウェアに関してはアイデアがあったものの、ハードウェアつまり研修会場となるホテルなどの予備調査なしに押しつけられても困るということで一年猶予をもらうこととなり、その代わりではありませんが第十四回の副実行委員長として参画し学術を二年計画で推進していくことになったのです。

 そして間もなく迎える第十五回滋賀大会は、マンパワー不足の滋賀漢方鍼医会でどうやったなら切り回しできるか心配していたのですけど、講師合宿の会場探しから始めなければならないなど予想外のトラブルに見舞われ続けながらもやっぱり案ずるより産むがやすしで、なんとか準備が整いつつあります。
 参加して頂いた先生方に思い出と治療家としての影響が残る大会になるように、本番へ向けてまたギアを入れ直していきましょう。