(この文章は2018年7月15日の、滋賀漢方鍼医会月例会における朝の挨拶からです)
今まで研修会で使ってきたアンプがあまりに重たいことと15年も経過しているので、もう交換した方がいいのではないかという会員からの意見がたくさん寄せられ、この後に年度初めに予算が組まれていませんでしたから臨時総会が開かれることになっています。そこでちょうどお題をいただいたという感じでもあり、研修会での録音が今までどのように行われてきたのか、私の知っている範囲ですが話をしてみたいと思います。
私が入会させてもらったのは1986年ですから30年以上経過しているのですけど、学生最後の専攻科理療科3年生でした。その頃はカセットテープを高速ダビング機でどんどん複製できる時代ではあったのですが、ウォークマンも既に全盛期を過ぎていてポータブル機もすぐ手に入れることはできました。社会人になって初めての給料は少しだけですが両親にプレゼントを買って、その次の給料でオートリバースのウォークマン形式のカセットプレーヤーを購入し、朝の掃除の間ずっと片耳ヘッドホンを装着して講義を聴くというスタイルができあがり今でも続けています。このオートリバースのプレーヤーは、開業してもまだ相当な期間を使い続けていました。
振り返ってみると一番古い録音を聞かせてもらったのが、井上恵理先生が東洋はり医学会で講演されていた「病因論」です。昭和40年代の前半に亡くなられていますから、ここにいる先生たちの中では誰も直接お目にかかったことはないのですけど、収録の日付が昭和37年から昭和41年だったと思います。オープンリールで収録されていたものをカセットへダビングし、さらにそのダビングを聞いていることになります。今のデジタル録音でファイルコピーをするだけなら全く音質は変化しないのですけど、ダビングを繰り返せば当然音質は落ちていくものであり、元々の録音がそこまできれいな状態ではありませんから、雑音の中の言葉を聞きました。
録音テープは歴史を調べると、既に1900年には鉄製のものが発明されていたとあり、第二次世界大戦中には軍用技術として磁気テープが登場していました。戦後に民政移管されると音質の飛躍的向上が実現し、放送業界で用いられたことにより技術がさらに向上していきます。日本ではソニーが1950年にオープンリールそのものではありませんが製品化したとあります。「デンスケ」はソニーの登録商標ですが、持ち運びできるタイプのテープレコーダーの代名詞として用いられることがよくありました。
東洋はり医学会の歴史にもなりますが話が少し戻りまして、昭和14年に竹山・井上・岡部先生たちを中心に本格的に経絡治療を勉強する「やよい会」が立ち上がり、そこへ福島弘道先生や小里勝之先生たちも一緒に勉強したいとお願いをしたところ、「盲人は古典が読めないからだめだ」と断られてしまいます。しかし、どうもこのあたりは前後を総合すると福島弘道先生の記憶が一部間違っていたり脚色を加えての話になっているようで、視覚障害者は同じ土俵で勉強しようとすると無理があるから視覚障害者を中心とする組織を別に作ればということだったようです。「やよい会には入れてやらない」というのではなく、勉強のペースが食い違ってしまうのでそのように勧められたようです。
それで戦中にも視覚障害者を中心とする勉強会は組織されたのですが、戦火が激しくなり一度解散となります。小里勝之先生の本を読むと昭和27年頃に東京へ戻ってこられたのですが、ここで結核になってしまい寝込んでしまいます。けれどここから自己治療によって復活をされ、昭和34年に福島弘道先生と当時の名称は異なっていましたが東洋はり医学会を再結成されます。1959年ですからこの頃にはオープンリールでのテープ録音が可能になっていたはずです。
私が昔の録音ということで強く覚えているのは、香取利雄先生本人から聞いたエピソードです。「鍼一本でご飯が食べられるようになりたい」そのためにはどうしても勉強をしなければならない」ということで群馬県から東京まで通われたのですが、例会当日は朝5時から滝に打たれていたということです。この一ヶ月間のことを今日一日で集中して勉強するのだという気合いを入れるために、滝修行をされたのだそうです。そして6時過ぎから奥さんの手引きで東京へ出てこられるのですが、オープンリールのデッキを背負っての移動でした。そのデンスケがあまりに大きく重たいので香取先生自身はデンスケの運搬だけで精一杯になりますから、その他の点字板や勉強道具にお弁当などは奥さんが持ってという具合だったそうです。そうした努力で会場へ早く到着をして、録音ができる限りきれいに取れるようにと一番前の座席を確保されたということでした。そして録音した内容を、一ヶ月間繰り返し聞いたということです。さらにテープの単価が高いですから参加した分のすべてを残すことができないので、二ヶ月分から三ヶ月分を使い回していたということを聞きました。
先輩たちはこのように苦労をして、血のにじむような努力から勉強をされていたという歴史があります。それだけにこの年代の先輩は個性的で、多くの名人を輩出したのでしょう。また独自の技術を持っていたという印象も強いです。経絡治療のバリエーションがまだそれほどでもなかったという評価ができるかも知れませんけど、それ以上に目の見えないことをハンディとせず技術向上のバネとすることで、誰にも見えていなかった突破口を開いてこられたのではないかと感謝するばかりです。
私の小学校入学は昭和47年ですから1972年であり、香取先生たちがデンスケを背負って通われていた時代から10年後くらいです。盲学校でしたから耳で学習するので、商学部が集まって童話の録音を聞くことがあったのですけどオープンリールのテープだったことをよく覚えています。それから親父がステレオを持っていたのですけど、そこにもオープンリールのデッキがありました。
カセットテープが家にやってきたのは、小学2年か3年の時だったと思います。ラジオとカセットが一体になったいわゆるラジカセだったのですけど、単機能であり音質もそこまでよくなかったはずなのに母親が少し無理をして当時で2万円台のものを買ってくれましたから、今の値段だと3倍近くになるのではと想像します。最初はC30でしたから、片面15分しか使えないテープでした。すぐC60も出てきましたけど、おそらく視覚障害者の先生たち以外でもたくさんの荷物を持つことと録音もできる限り残したいということで、こぞってカセットテープへ切り替えられたのではないかと想像します。小学4年生くらいからその当時は盲学校の敷地内に点字図書館があったので遊びに行くようになったのですけど、オープンリールからカセットへダビングをしている真っ最中で半数くらいが切り替わった頃でした。中学生の頃になると高速ダビング機が実用化されて、録音図書はすべてカセットテープとなり、研修会での録音も手軽になっていたことでしょう。
カセットテープで覚えていることは、最初のラジカセは姉が使い込んだのですけど中学へ上がる手前で深夜ラジオを聞き始めていたからでした。ステレオ使用ではありませんからエアチェックには貧弱だったのですけど、歌謡曲のランキング番組でお気に入りの曲を録音したものです。私もポータブルタイプを買ってもらってテレビのアニメソングなどを直接録音したりしていましたが、接続コードを使うというのは早かったです。BCLといって海外からの短波放送を聞くのが流行った時期があったのですけど、これには接続コードを使っての録音が威力を発揮しました。高校生の年代にBASICのパーソナルコンピュータが登場し、その頃のデータはカセットテープに記録したのですけどエラーが頻発するので泣かされたことも覚えています。ウォークマンが登場したのが中学3年ですから1980年のことであり、欲しくて欲しくてたまらなかったなら高校2年の時にディスカウントショップで中国製のものが3000円でタイムセールがあり、やっと買ってもらえたのに二日後に軽く壁にぶつけただけで壊れてしまったという笑えない思い出もあります。姉と共同で購入した初めてのWカセットは超巨大なもので、早送りや巻き戻しで曲の頭出しができるという当時画期的な機能がありました。このWカセットは、開業してからも回覧で回ってくる講義のダビングに相当長く使っていました。
学校を卒業して1987年から下積み修行へ入り、東洋はり医学会北大阪支部の頃は東京の本部会での録音を支部で購入し、さらにそれをダビングしたものを個人で購入していました。支部での講義も、個人購入でした。支部の財政的なこともそうですがカセットテープ自体に費用がかかるので、まとめてこうにゅしてもC120で一本200円はしていたと思いますからダビングをしてもらっての購入時はそれより高くなりました。高校生の最後でCDが登場してきたのですけど、それでも学生が音楽を気軽に聴くとなればカセットテープでしたからクロームテープという音楽用のちょっと高めの種類がC90でディスカウントショップのまとめ売りでも一本が300円くらいしていたと思います。お小遣いを頑張って貯蓄してレンタルレコードから借りてきて、カセットテープへ録音している間に曲名などを書き写すのです。それも主流はプレーヤーそのものが普及していないのでCDではなく、まだLPレコードです。そして当日返却だと料金が安いですから、すぐまたレンタルレコードへ出かけるという涙ぐましい努力ですけど、みんな当たり前にやっていました。
これが1990年代半ばからMP3のデジタルフォーマットが登場してきて、様子が変わります。MP3はライセンスフリーが故にCDの音源をダビングしてしまい、しかもファイルサイズを10分の1程度にしても音質がCDに近いということで、違法コピーが爆発的に増加してしまいました。さらに普及が進んできたインターネット上で著作権を無視して公開されるということと、パソコンで音楽CDそのものをCD-Rへコピーができてしまうようになり音楽業界の収入が激減してしまいます。そこへパソコンからCDと全く変わらない高音質でファイルは取り込めるものの一方通行でファイルをばらまくことができないiPodが登場し、ネット上で一曲ずつからでも購入ができるミュージックストアが整備され、著作権の無視はある程度の歯止めがやっとかかります。ところが次はyoutubeでまたまた違法アップロードの嵐となるため、ミュージシャン側が公式アカウントを作って無料で音楽を聴くのがまた当たり前になってしまいましたが、音質の問題があるのでストリーミングサービスが流行るようになってようやく音楽業界の収入がまた安定してきたというのが2018年の状況です。
滋賀漢方鍼医会が研修会の録音をデジタル配信したというのは、おそらく鍼灸業界では一番乗りに近かったのではないでしょうか?あの当時に在籍していた助手と、何度も何度も試行錯誤のためにファイルを作成したり再生テストをしたりなどしていました。そして漢方鍼医会が採用しているホームページの裏スペースを使って配信をするという方式は、これは私が考え出したものです。ホームページを自作で公開できるようになっていたので、その中でダウンロードリンクというのは実行ファイルの.exeもしくは圧縮ファイルの拡張子だとブラウザがダウンロード動作に自動的になることがわかってきたことから、最初はどこにも紹介していない秘密のページへダウンロードリンクを張って配布を始めました。でも、「ひょっとすればこれはページをわざわざ書く必要がないのでは?」ということでメールで直接アドレスだけを紹介する形式にしてみたなら、思い通りの動作をしてくれたというわけで配信側もダウンロード側も非常に簡便なシステムができあがりました。しかもファイル名を少しランダムにするだけでメールをもらった人以外は推測でのダウンロードができず、自画自賛ですがセキュリティ面も優れています。
今まで使ってきたこのアンプは、音声を大きくしたいことと録音をもっときれいにということがきっかけでした。それまでは講義者のすぐ近くにポータブルのカセットレコーダーを設置することで講義はしっかり録音できるものの質問が録音できない、そこで日本伝統鍼灸学会のように質問は前に出てきてもらってということをやっていたりしました。それでカセットデッキも内蔵されているものをということで、会員に探してもらって購入したものです。これが15年前だと思うのですけど、今使っているこの研修会の会場へ届いたなら「重たすぎて手でぶら下げて移動するなんてとてもできないぞ」ということから、急いで道路を挟んだ草津の平和堂へローラーのついたキャリーバッグを購入に出かけたことをよく覚えています。三人で交代しながら平和堂までアンプをぶら下げるようにして持って行きましたけどしんどかったですし、キャリーバッグも三代目ということでやっぱり重量がすごかったんだなぁということです。
本部会の録音を今年度からは本部会員も無償でダウンロードができるようになり、地方組織は義務購読でしたから買い取ったものは地方が自由にできるということで無償でダウンロードできるようにしていました。ちょっと笑えない離しになりますが本部会の講義は、本部会員よりも地方組織会員の方がしっかり聴いていたという「灯台もと暗し」の状態だったわけです。もちろん滋賀の月例会についても無償で配布してきたのですけど、貴重な録音ですからCD-Rに焼き付けるなどして残しておいて欲しいと思います。
また少し話が戻りますけど、私は下積み修行をしていましたから師匠が持っていた膨大なカセットテープを整理するという名目で、自分でも購入はしていましたがたくさんの録音を聞かせてもらいました。どれだけのカセットテープにラベルを書き込んだのか、しっかりわかりませんけど段ボールが満杯になるくらいはやっているはずです。福島弘道先生が「経絡治療学原論」というC120で50本という継続講義をされているのですけど、これを通しで何度聞いたことでしょうか、経絡治療の理論は頭に入っていたはずですけど絶対に抜けないまでにたたき込まれました。小里勝之先生の「私の治療室から」という臨床報告の講義はC120で6本でしたが、これによって様々な病気があることを知り標治法の工夫なども学ばせていただき、師匠のやり方とは違う経絡治療のオーソドックスなスタイルに切り替えての開業をスムーズに進行させることができたのはこの講義のおかげです。そして先輩たちが数多く発表をしてくれている治験発表は、生きた教科書そのものでした。滋賀支部は人数が少ないので本部の録音テープは回覧制にしており、急いでダビングをしたなら母親に出勤の回り道をしてもらって次の先生のところへ届けてもらっていたものです。
漢方鍼医会になってからも、最初の池田政一先生の継続講義は何度繰り返し聞いたかわからないくらいであり、漢方の生理だけでなく病理がどれだけ重要なのかを覚え込む教材でした。またニューサイエンスという分野にはまってしまい素人の女の子を雇って元の本も高かったですけど朗読料金も相当額を支払って、個人で音訳をしていた時期がありました。この貴重なカセットテープは、現在ポータブルレコーダーの形でありながらMP3への出力ができるものがあるので、タイマーを使いながらの機械的ダビングですけどデジタルデータに変換中です。
「医道の日本」もカセットテープで届いた時代には仕事中に必死でダビングをしていたのであり、オートリバースで倍速ダビングのできるデッキになってからは相当に楽になりましたけど、デイジーCDで届くようになるとハードディスクへコピーするだけなのでその日のうちに返却ができるようになりました。今はインターネットのサピエ図書館からダウンロードするだけであり、携帯電話と同じくらいしか大きさのないプレーヤーで聞くことができます。点字図書もインターネットからダウンロードするだけなのですが、触読ではなく携帯プレーヤーに読み上げさせるということもできるようになりました。
カセットテープの時代が長く、保存には特に苦労をしたのですけどこの20年で環境は劇的に変化しました。ただし、ICレコーダーの録音はMP3が主流なもののライセンスフリーであるためにバージョンが多すぎて適切なものを選び出してくるのが大変ですし、なかなか「これ」というものに出会えません。オリンパスが採用していたWMA形式が適当なファイルサイズとクオリティのバランスなので漢方鍼医会は統一して採用してきたのですけど、ライセンスの肝経なのか現在発売されている機種ではサポートをされなくなり、滋賀漢方鍼医会ではアマゾンから在庫品や中古品を買い集めて今後しばらくに備えていますが、その後はどうなることでしょうか。
ということでアンプも一つの時代の区切りになるわけですが、録音のことだけでも過去の先輩たちは非常に苦労されており、今の我々も工夫をしてきたという話をしました。治験発表にフォーマットを導入して多様化した治療法にも流れを取り戻す努力を始めていますし、バッテリー駆動のできるアンプとピンマイクの組み合わせで実技の録音も今後は行っていきます。生きた教材の録音ですから、大切にそして技術へ生かせるように聞いてください。