思わずワープロ専用機の思い出がシリーズとなっているのですが、肝心のパンフレット製作のノウハウは次回へまだ先送りするとして今回は自分の作成した原稿から再び勉強をするという話題です。
文章そのものがうち上がってしまえばワープロ専用機でもパソコンでも違いはないのですけど、大きく違うところはデータの互換性があるかどうかです。ワープロ専用機が急速に衰退したのはパソコンの機能向上もあったでしょうけど、最大の原因はデータの互換性が乏しかったことだと想像しています。
私も開業から数年後にワープロ専用機と同時に目的はデータベースソフトだったのですがパソコンを導入し、しばらくしてDOSマシンで点字エディタも使うようになりました。点字エディタを初めて使った時の感動は点字と点字プリンタのレンタルでも書いていますが、その当時はいくら便利になっていたとはいえ劇的に用語まで変化していた時代ですから研修会での原稿をひらめいたままに打ち込んでもかな漢字変換が追いついてくれなかったので、発表原稿はまず点字エディタで製作しなければなりませんでした。その点字で製作された文章を普通文字の原稿にも起こさねばならないという作業がありました。最初は点字原稿をたどたどしく読み上げた録音をアルバイトに打ち直してもらっていたのですが、適当な箇所で自動的に変換操作をしてくれただけなのですけど、それでも最初から手で打ち直すことに比べれば点字エディタのファイルから普通文字のテキストファイルが自動生成できるプログラムが存在していたことに関心をしたものです。この時に、データの相互変換ができるメリットを痛感したのでした。
そして、かな漢字変換の辞書も鍛えられたことから今日では先に普通文字の方を打ち込むのが当たり前になっていて、それを自動点訳ソフトで変換すればケアレスミスの箇所を訂正するだけで普通文字と点字の二つの資料が視覚障害者独力で完成してしまうという、凄い時代になっています。
このようにデータを様々な形に変換したりやり取りができるということで、視力の関係以上に便利さ優先でワープロ専用機からパソコンへとシフトしていったものでした。主体に考えていたデータベースソフトの利用を追い越して、アウトラインプロセッサの活用も含めて文書作成は全てパソコンで行うようになっていました。
しかし、ワープロ専用機で打ち込んだデータの量は膨大であり、パンフレットは原盤をコピー機に掛ければ活用が続けられたのですけど、その他の雑誌投稿などをしてきた資料がタンスの肥やしと化してしまったのです。これは非常にもったいないとは思いつつ、研修会の劇的な変化が続きますから新しい勉強と資料作成に没頭していて、フロッピーの中にデータは眠り続けることとなってしまったのです。
これをうち破る転機が訪れたのは、皮肉なことにワープロ専用機からさらに遠ざかる方向へと動いたホームページ製作の過程でした。ホームページでは何か特徴を出さねばなりませんから色々アイデアを出して今はかなりを実現させたのですけど、一番アピールしやすく一番近距離に計算できて大量に保有しているということで、自作パンフレットの公開を思いついたのです。ちなみに全て私の言葉で書いていますから、盗作はあり得ないという自信があってのものでした。
これも時代の流れで以前はフロッピーのカード型データベースをデータ変換をしてもらえないかとメーカーに相談を持ち込んだところ、非常に特殊なケースということであまりに高額なために断念していたのですけど、インターネットを探し回っていると大精電子のページがヒットしてきて、アバウトながら一太郎かマイクロソフトワード形式でデザインまで引き継げるというのです。
実はOCRソフトでスキャンしてマイクロソフトワードへ渡すという手法でパンフレットのデータ移植を試みてみたのですけど、読み取り間違いがあまりに多いので、その当時に在籍していた助手はパソコンが不得手ということもあってまた断念寸前まで追い込まれていたのでした。
このデータ変換サービスという逆転ホームランが飛び出したことで、ホームページ上で自作パンフレットを公開するというコンセプトが果たせるようになっただけでなく、フロッピーの中で眠り続けていたデータを今度は音声化して耳から聞くこともできるようになったのでありました。
私はどちらも共著であり自費出版なのですが、既に二冊の本を発行してきました。これは二十代の半ばから「本を世に送り出したい」という希望を持っていた結果の一つであり、その基礎として東洋はり医学会時代に『ニューサイエンスの考察』というしりーずを機関誌に連載させてもらったことがありました。ニューサイエンスとはキャッチコピーなので日本でしか通用しない言葉なのですけど、世界的にはニューエイジとかニューエイジサイエンスという分野でくくられている学問分野のことであり、その響きさえ少し古くなってきているのが現実ですね。
どうしてこの分野にのめり込んだかなのですけど、東洋はり医学会三十周年記念の外来講師として聞いたフリッチョフ・カプラ氏の話がきっかけでした。実は講演をほとんど最前列で聴いたのではありましたが、事前に配布されていた著書も軽くは聞いておいたのですけどリアルタイムでは内容の半分しか咀嚼ができず、後日に文章興しされた講演内容を読んで「なんともったいないことをしていたのだろう」という思いからフリッチョフ・カプラの著書だけでなく興味が持てそうな題名から関連書も取り寄せてみると、なんと求めていた世界がそこにあったのです。
大枠としてはシステム論を軸に、東洋思想と最先端の物理学が描く世界は相似的であることが語られ、思考理論の転換を迫る論客たちが同一時期に現れたのでした。世界観の変革ということでパラダイムシフトが予言されたのですけど、ある意味では環境破壊からの危機感よりそれなりにパラダイムシフトが起こったとは言えますが、インターネットの爆発的普及などテクノロジーの発達が早すぎてパラダイムシフトの手前で足踏みしているとも言えます。
自筆の連載を読み返していて、「この年齢でこれだけ生意気な投稿をよくぞ掲載してもらえたものだ」と感心もしたのですけど、その時点での考え方をまとめておくことの大切さを自らの原稿から学ぶことにもなりました。
考え方というものは知識だけでなく経験の蓄積からどんどん変化するものなのですけど、経験の蓄積とは新鮮な感動を日常茶飯事の出来事へと鈍化させてしまう効果も持ち合わせていて発想の基本がいつの間にかすり替わっていることさえあります。しかし、発想の基本がねじ曲がってしまっては思考そのものもねじ曲がっているということであり、真っ直ぐな発想を続けるためにはその時ごとに感じたものをまとめておいて自ら読み返すのが重要であると痛感したのです。
そこで、システム論の中でもかなり分かりやすく今でも考え方の基本には必ず一つ噛んでいる「ホロン」について記述しておきます。
ホロンとはアーサー・ケストラー氏の造語であり、「ホロニックパス」とか「ホロスコープ」などという言葉を聞いたことがあるように、全ての構成要素は亜全体で成り立っているということを意味しています。
例えば人間とは心と肉体から構成されているのですが、肉体の構成要素は腕や足などの運動器から脳などの神経や五臓など内臓といった組織で構成されており、組織は細胞から構成されています。しかし、主である人間は細胞ごとの動きなど関知していませんけど一つの完成された「全体」としてバランスを保ちながら行動をしています。これを細胞レベルで眺めてみると、細胞の中にはミトコンドリアとか核などという細胞小器官があって細胞が構成されているので一つの「全体」なのですが、前述のように細胞が集まって組織が構成され組織から肉体が成り立っているというように、「部分」としての役割もあります。つまり、下方に向けての顔は「全体」としての完成された個体でありながらも上方へ向けた顔は「部分」であるという、ホロンとは常に亜全体という性質を全てのものが有しているという意味です。
人間も家族の一員であり、家族は地域社会の一員であり、地域社会が集まって国家が形成されていますが、それぞれは自治能力を持った全体でもあります。地球には動物や植物がいて海や大気などもあって全体としての地球なのですけど、地球は太陽系の一つの惑星であり、太陽系は銀河の一員であり、銀河は銀河集団の一員であるというように、下方に向けた顔は完成された全体であり上方に向けた顔は従属的な部分として振る舞っています。これをギリシア神話の中で二つの顔を持つヤヌスにも例えられています。
さらにかなり荒っぽい解説にはなりますけど、システム論のアプローチとは今位置している箇所が階層構造のどの段階でありどのように全体として・部分として振る舞うべきかを理解して最善の方法を探ろうとするものであり、東洋思想とりわけ東洋医学とは部分としてのアプローチだけでなくそれが全体へどのような影響を与えていくものなのかを常に先読みしながら施していこうとするものだと捉えています。その考え方を端的に表現してくれる言葉がホロンであったという話でした。
その他にもいくつもの書物から思考を紡いで記述してみましたので、興味のある方はホームページの方から読んでみてください。